明日も暮らす。

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シンプルで暮らしやすい生活を目指しています。オンライン英会話(英検1級)と空手(黒帯)が趣味。大学院博士課程修了(人文科学)。2児の母。

稲垣えみ子『寂しい生活』は、専業主婦の私に語りかける本でした。(後編)

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つま子

おはようございます。アフロの梅つま子、今日は『寂しい生活』の読書記録(後編)をお届けします!

読んだのはこちらの本です。 

稲垣えみ子『さびしい生活』

稲垣 えみ子 東洋経済新報社 2017-06-16
売り上げランキング : 6734
 
by ヨメレバ

 

朝日新聞を退職されて節電生活を送られている稲垣さんの著書です。

以前も読んだ『魂の退社』の読書記録はこちら。

■稲垣えみ子『魂の退社』を読んで、私もアフロにしたくなりました。(前編)■

■稲垣えみ子『魂の退社』を読んで、私もアフロにしたくなりました。(後編)■

この記事の前に、『寂しい生活』の読書記録(前編)を書いております。

■稲垣えみ子『寂しい生活』は、専業主婦の私に語りかける本でした。(前編)■ 

 

つま子

後編は…仕事をしていた私へのレクイエムみたいでした

 

冷蔵庫を手放す=夢を諦める

料理が趣味で、ストレス解消法だった稲垣さん。

その稲垣さんが冷蔵庫を手放す痛みは、アイデンティティの痛みといっていいようなもののように読めました。

私はこの、冷蔵庫を手放す=夢を諦める、のくだりが、私にとっての「仕事を辞めたこと」に重なって仕方ありませんでした。  

 

美しいレシピ本を見て、出来上がりを想像し、自分の手でご馳走を作り出すことは間違いなく私の活力であった。

楽しく、クリエイティブで、集中できて、仕事のストレスを解消してくれる貴重な機会であった。

ありとあらゆる引き出しや棚にぎっしりと詰め込まれた食材や台所用品は、私の夢であった。

なるほど冷蔵庫をやめて暮らすとは、そういうことであったのか。

私はこの夢を諦めるのだ。

これからは「世界のご馳走」を作ることはない。

あれもできる、これもできるという人生の可能性を広げることが豊かさなのだとしたら、私はその豊かさにくるりと背を向けて生きるのだ。

しかも自ら望んで!

こんな日が来るとは考えたこともなかった。(p.170-171)

 

どうしても自分に引き付けて読んでしまうのですが…退職するまで、私は割と仕事が好きでした。

楽しく、クリエイティブで、集中できる仕事。

「等身大の自分」以上の存在になれる気がしていました。

 

そうやって手に入れた夢の仕事だったのですが、退職という選択は、職を得るために10年近く学んできて、ようやく解放したカードを自分の手で裏に戻すというか、捨てたように感じていました。

可能性を自分の手で閉じたように。

 

だから、長いことやりきれなかったのですが、この稲垣さんの文章を読んだら気づくことがありました。

美しく豪華な世界の料理が、日常のご飯とはかけ離れているように、私の仕事の仕方は、私の等身大を表してはいなかったんだろうな、と今となっては思います。

いつも背伸びして、緊張して、自分のMAXパワーを発揮して集中してがんばらなければ作れない料理を作ろうとしていた。そんな感じだったなと。

料理にたとえるなら、24時間キッチンから離れずにいたようなものでした。

勤務中はもちろん、早朝から起き出して仕事をしていたし、夜も仕事のメールが気になって眠れなかったし…。

 

稲垣さんはこう続けます。

 

そもそもご馳走とはなんなのだろう。

珍しいもの、食べたことのないものももちろんご馳走だ。

しかし、毎日の当たり前のご飯をありがたくいただく。

それだって十分なご馳走なのではないか。

というか、私にとってそれは「新たなご馳走」である。未知の世界である。

(中略)

改めて考えてみりゃ、私もちと疲れていたのである。

買っても買ってもキリがないレシピ本。

使い切れないエキゾチックな香辛料の数々。

私一人が食べられるものは限られているのに、夢は広がる一方なのだ。

かくして使い切れないものだけが増えていく。

(中略)

実家に行くと、いつだって母の枕元にはレシピ本が散乱している。

線を引いたり、書き込みをしたり、なんとかしてその料理を作るのだという母の切ない気持ちが迫ってくる。

(中略)

そんなにまでして、複雑なご馳走を作らなくてはいけないのだろうか。

お母さん、もういいよ。

凝ったものじゃなくて、毎日同じご飯でいいじゃない。

でも母はなかなか納得してくれない。

上を見て生き続けることは素晴らしい。

しかし上を見られなくなった時、人は何を目指して生きればいいのだろう。

(中略)

毎日の食事は本当はうますぎてはいけないのかもしれない。

うまいものは飽きる。

だから毎日うまいものを食べていると、毎日違うものを食べなきゃいけなくなる。

それを私は豊かさだと思ってきた。母もそう思ってきたんだと思う。

そして母は今、そのことに苦しんでいる。(p.170-175) 

 

私は、初めて作る料理を作るようなテンションで仕事をしていたみたいです。

仕事は毎日のことなのに、毎日が、初めて使う特別な調味料を使って、初めてのレシピを広げて、キッチンに立つような緊張感だったら、それじゃ続くわけがありませんでした。疲れすぎるもの。

私も疲れ果ててた。

すごく楽しかったし、その仕事についている自分に誇りも感じていたけど、結局は、自分の性格やキャパに見合ってなかったようです。

そのことは、認めるしかないんだな。 

 

そして、私のとっての、いそいそと買い集めた”香辛料やレシピ”=仕事で買った約600冊の本、を昨年思い切って処分した今は、気持ちも楽になったし、「毎日食べるご飯をほどほどに美味しく作れたらそれでいい」、そう思います。

 

無駄って何だろう

稲垣さんが書いていたみたいに、私も、

■無駄な時間/役に立つ時間、

■無駄な人間/役に立つ人間、

って分けて考える習慣に毒されていたのかもしれません。

 

私こそが、自分の時間をずうっと2つに分けてきたのです。

「無駄な時間」と、「役に立つ時間」と。

「無駄な時間」っていうのは、そう、家事とかそういう「面倒くさいこと」をする時間です。

評価もされず、お金にもならず、そういうことをする時間

「役に立つ時間」っていうのはその逆ですね。

つまりはお金になる時間。評価される時間

そうなんです。

考えてみれば私はこれまでずっと、他人と差をつけて豊かになろうとしてきただけじゃなかった。

その戦いに勝つために、つまりは他人より上に立つために、自分自身の時間も差別してきたんです。

無駄な時間を疎ましく思い、排除しようとしてきた。

だから頑張れば頑張るほど、自分の人生の一部を憎むことになった。

でもそれが「前向きな人生」ってものなんだと思って生きてきた。

さらに言えば究極のところ、私は口ではどんなきれいごとを言っても、世の中には無駄なこととそうじゃないことがあると、分けて考えていたわけです。

時間だけじゃない。人間もそう。

腹の底では、「世の中には役に立つ人間と、役に立たない人間がいる」と思ってきた。

で、私は役に立つ人間でいたい。

無駄な人間ではいたくない。ずっとそう思い続けてきた。

 

退職することは、私にとってつらいことでした。

せっかく無駄な時間を排除して、役に立つ人間になろうとして必死にもがいた10年の果てにようやく仕事を得たのに、そして職に就いて「役に立つ人間」になれたと思ったのに、退職したら役に立たない人間になって無駄な時間を過ごすことになる。

そう思ったからだと思います。

そういう見方で見ていたらつらいに決まってる。

自分が、人間や時間のことを、”役に立つか無駄か”、の分類で差別していたら、それは翻って自分に刺さって傷つける。当たり前のことでした。

 

 家電についての考え方

家電をほとんど持っていない稲垣さん。

本書の中で、ほとんどずっと首を縦に振りながら、そうそうその通りだ、と思っていたけど、ここだけは、慎重に考えたいと思いました。

 

「家電は女性を解放する存在じゃなかったのか?」「それを否定してもいいのか?」という問いかけに対する私の答えはこうです。

これは女性の問題じゃありません。

男であれ女であれ、自分はいったい何に縛られているのか。

そこをまず考えてみてほしいのです。

で、もしあなたが本当に解放されたいと思うのなら、必要なのは「より便利」な家電を買うことじゃない

もちろん誰かに何かを押しつけることでもない。

もっと根本的な何かを変えることなんじゃないだろうか。

それはつまり、うまく言えないけど、生きるってこと、この生きている限りの時間をちゃんと生ききるってことなんじゃないか。

すべての瞬間を、そして人間を、馬鹿にせず、差別せず、正面から向き合って、生きるってことなんじゃないか

生きるってね、面倒くさい。

でも面倒くさいからこそね、素晴らしいんだ。

  

稲垣さんは「本当に解放されたいと思うのなら、必要なのは「より便利」な家電を買うことじゃない」と書いているけど、私は、家電は、あっていいと思う。

 

冷蔵庫も食洗機も、これからも使うつもりです。

でも、そうして得た時間や、温存した力を何に使うのかは、よくよく考えるべきなんだ。

 

そして、お金や道具でも解決できる面倒なことを、あえてお金や道具で解決しないで、あえて面倒くさく、時間をかけて家族や友達とわいわい楽しむやり方にもできることを、私は知っておくべきだと思いました。

 

掃除する、ご飯を作る、家事のひとつひとつに、家電に託すコースと、自分の手でやるコースがある。

いろんなコースがあること、そしてそれぞれのメリット・デメリットがあることを知っておくべきで、いつも同じやり方にしないで、たまには違うやり方を実践するべきなんではないの、と思ったんです。

 

ひとつのやり方に依存している物事は弱い。

ひとつの家電が壊れたら家事が止まってしまう、のではなく、家電に何をさせているのかを思考停止しないで考えるべきなんじゃないか。

 

そのために、やんわりとした力しか出力しないで日々省エネしていることを反省したいです、私は。

 

ちゃんと物理的な力と、頭の力を出力したい

そう、私はいつもやんわりした力しか使ってないんです。

頭もやんわりとしか動かしてないし体もやんわりとしか動かしてない。

日々動かさない結果、なまってしまって、最大パワーが落ちてる。まずいぞ。

 

物理的な力のほうは、おそらく布団の上げ下ろしと、床の雑巾がけがいいと思っています。

どちらも今のところ絶賛サボってます。反省。

 

頭の力のほうは、インプットしたことをアウトプットしたり、日々の生活の中で経験したことを深く理解して意味づけたり、といったことをするといいのではないかと考えています。

そしてそのために、おそらくブログというのはこれ以上ないほど最適なツールであると認識しています。

ブログを書いていることで、インプット→アウトプットの道を、作れている気がする。

よし、ちょっとはできてる、と思えるところはこれからもやろう。

 

そして、もっと意識的に、体も頭を使っていこう。力を出していこう。

 

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