はあ。
勢いよく、こんなこと書きましたけど…。
本を処分するのに苦戦しています。
全部を一気に出して、「いる/いらない」の作業ができないものだから、
ちまちまちまちま、手放せる決意がついたものだけを抜き取っています。
いや、だいぶ減ったと思います。たぶん半分くらいは減った。
感覚としては、1000が500くらいになったような気がします。
(いろんな意味で怖いので、本の数は数えていません…。)
しかし、ある程度まで減った後が、なかなか減らない。
この停滞感は、ダイエットとか、語学習得にちょっと似ている気がします。
捨てにくい本というのは、私の場合、大きく分けると3つあるようです。
一つは、まだ読んでいないけれども、これから読みたい、まっさらの本。
二つは、昔読み込みまくって、書き込みやらアンダーラインやら手あかがつきまくった本。
三つ目は、実用的で、これから使うかもしれない本。
「まだ読んでいないけれども、これから読みたい、まっさらの本」のなかでも、
特に別れがたいのは、がっつり重たい哲学書とか。
そんなの一体いつ読むんだよ、と思いながらも、とてもじゃないけど手放せない。
これを手放すためには、ちょっとした、理想の自分の上書きが必要な気がします。
かっちょよく言うと、
”こういう自分になりたい”と願った自分像との決別なのかなあと思います。
「なりたかった自分」に未練があるのか、
もういらない。さようなら~、と、
ライトに手放せないんですよね。
こんな本読みこなせる自分になれたらかっちょいいのになー、
と思ってしまう。
そして、そうした古典的名著の価値は今後も変わらないだろうから、
家に置いといてもいいだろう。と思ってしまうので、
さらに処分しづらくなってしまうんですよね。
「昔読み込みまくって、書き込みやらアンダーラインやら手あかがつきまくった本」は、
自分がどういう人間であったかの証拠みたいなもので、
物理的に、今の自分の近くに、モノとしておいてあってほしい、
と思ってしまいます。
もはやアルバム状態。
といってもアルバムほど手に取りはしない。
むしろ見返すと、青くさい自分の走り書きが、こっぱずかしい。
ただ、そこにあると安心な感じがするし、情があって捨てにくい。
「これから使うかもしれない本」は、
割と簡単に「これは残す。必要。」と思ってしまうんですが、
よく考えると、その”これから”って、来るとしても5年以上あとだと思います。
この類の本に関しては、さらに、
「子どもたちが大きくなったら、こんな本を手に取ってほしい…」という夢見がちな思いも重なってしまいます。押し付けがましいな…。
よしんばいつか手に取ってくれるとして、そんな日はいつ来るのだろう…。
こんな考え方をしているようでは、ミニマリストには絶対なれないな。
何も考えずに、すべての本と別れても、
普通に暮らしていける気がする。
その一方で、一気にこれらの本を処分したら、
放心して、いったい自分が何者かわからなくなってしまいそうな気もする。
そんなこんなで、
昨日も今日も、たぶん明日も、
「これは…まあ、いらないかな…これは、ちょっとまだ手放せないな…」と、
ちまちまちまちま続けている気がします。
はあ。