おはようございます。
梅つま子です。
今日は、最近読んだ本の紹介です。
本屋さんでも平積みで置かれていることの多い、こちらの本を読みました。
最初にこの、『ぼくたちは習慣で、できている。』と出会ったのは、娘のスイミングスクールの至近の本屋さんでした。
待ち時間に、パラパラとめくっていて、
「あっ、これは、今の私に役に立つ本かも」
と思いました。
しかも、著者の佐々木さんと私は、生まれ年も、出身大学も同じであることがわかり。
「おお!何かご縁を感じる、今読まなきゃいけない本かも」とさらに思いました^^;
というのは、私。
このたび、食生活改善計画を実施中でして。
おなかの肉を落とすべく減量、そのための(ゆるい)筋トレを始めております。
食生活の改善も、筋トレも、「今までやっていなかったこと」。
今までやっていなかったことを生活に取り入れるということは、新しい時間の使い方を、毎日の生活に定着させなければならないということ…。
つまり、習慣だ…!
と気づいたのです。
これまで、息をするようにチョコを食べてきた私。
今、チョコを見たら、ぐらぐら心が揺れます。
ぐっと我慢して、時には海苔や煮干を口に入れて、気持ちを紛らわさないと難しいです…。
でもこれ、ずっと、歯を食いしばって我慢し続けるのかな?
こんなに毎回毎回つらいなら、いつか倒れてしまいそう。
もっと普段のトーンで、無理せずにチョコレートをやり過ごせるようにならないと、習慣にはならないよね。。。
そんなことを考えていたんです。
筆者の佐々木さんはこのように書いています。
(注:引用中の、太字・下線は梅つま子によるものです。以下同様)
ぼくは今、才能も努力という言葉も誤解されて使われていると思っている。
才能というのは天から与えられるものではないし、努力は歯を食いしばるような苦しみのことでもない。
それを「習慣」というテーマで明らかにしてみたい。(p.10)
チョコレートに魅了し続けられ、スナック菓子に幻惑され続けてる私。
いずれは、涼しい心で、お菓子をやり過ごせるようになるのかな?
やり過ごせるようになるのなら…早くそういう状態に行き着きたい。
それが、習慣なのかな?
どうしたらその習慣が身につけるのか、その境地に至れるのか、それを私は今、知りたいです。
心と部屋の状態は連動している。
部屋がいつでもきれいなことは、ぼくの落ち込みの底をセーフティネットのように支えてくれていたと思う。(p.19)
片づけを身につけ、ミニマルな部屋を手に入れたことで、筆者はどんな心の状態を手に入れたというのか…。ゴクリ。
とにかく興味が湧き、読んでみることにしました。
読んでみたら、この本は、「新しい食生活」という習慣作りをしようとしている自分にぴったりでした。
自分にとって、やめたい習慣である「チョコ」。
新しく始めたい「筋トレ」。
そして、もう習慣になった「ブログ」。
この3つを引き合いに出しながら、自分なりにこの本を味わってみることにしました。
長くなったので、前編・後編に分けました。
…だってこの付箋の量!
どうまとめればよいのか、苦戦しました。笑
では、早速いってみます!
「習慣」は、意志とは別次元のもの?
習慣って、強い意志のもとに形成されるものだと、私は勝手に思い込んでいました。
よい習慣を身につけられない原因は、人が目の前の報酬にどうしても屈服してしまうことに原因がある。
目の前に報酬がぶら下がっていたとしても、将来の報酬を得たり罰則を避けるために、それを断てる人が「意志の強い人」と言われたりする。(p.25)
でも、著者の佐々木さんの考えでは、それはどうやらちょっと違うようで。
人が取る行動には意識が関わっていないことが多い。
しかし、すべきことをしなかった時、問題の責任を負わされるのは意識である。
ダイエットができないのも、禁酒や禁煙ができないのも、仕事を先延ばしにするのも、その人の意識の問題で、「意志が弱いせいだ」と簡単にまとめられてしまう。
しかしそれは、はっきり言って意識や意志力というものへの過信だ。
意志が強い、意志が弱いという理由付けがなされる前提には、自分の意識が自分の行動を大きくコントロールしているという誤解がある。
まず肝に銘じるべきは、意識や意志が行動の原因ではないと知ること。ぼくたちは、ぼくたちの王様では残念ながらない。
最初にすべきは、それを冷静に認めることだ。(p.81)
意識や意志が行動の原因じゃないなら、なんだろう。
その答えは、この箇所にありました。
習慣を身につけることは、子どもがビールを好きになる過程と同じで、最初はただ苦いだけだ。その苦味を我慢して何度も試していくうちにいつしかいちばんの楽しみになっていたりする。
習慣を身につけることは、意志力を鍛え、誘惑を断てるようになることなどではない。
自分が感じられる「報酬」と「罰則」を書き換えるということだ。
何度も何度も行動することで、実際に自分の脳に変化を起こすということだ。(p.104)
習慣は、意志の問題に見えていたけど、そうではなく。
習慣にするためには、なにが「報酬」であり、なにが「罰則」であるかをはっきり認識する。
そのうえで、行動レベルで身に染み付けるために、脳に地道に教え込ませる。
そのほかの選択肢が見えなくなるほどに。
それが、佐々木さんの考えでした。
そんなふうに「習慣」をとらえたこと、私はありませんでした。
私の、チョコまみれだった食生活に関して置き換えてみれば。
私のこれまでの「報酬」は、「チョコレートで得られる、ストレスフリーな状態」でした。
でもそうじゃなく、本来、私が「報酬」として認識すべきは、「減っていく体脂肪率」であり、「ストンとしたワンピースを着ても目立たない、平らなおなか」なのですね。
私のこれまでの認識では、チョコレートが食べられない状態こそ「罰」のようだと思っていました。
そして、気の向くままに欲するままにチョコを食べていたけど、本当の罰は、「食べ続けて、太り続けること」にあったようです。
…うー、これに向き合うのは、自業自得とはいえ、苦しい!!
でも、この理解の仕方は、天地が逆になったような、不思議な「なるほど」感がありました。
そう…、私が本当にすべきは、「喜びを何に見出すかを理解しなおすこと」のようです。
チョコレートに見出す一瞬の快楽が、喜びでいいのかい、自分よ?
いや、違う。
ずっと求めてた、平らなおなかでワンピースを着ること。
子どもたちの残したものや、その場しのぎのお菓子で空腹を満たすのでなく、自分が美味しいと思う、健康で適量のものを、気持ちよく食べること。
そういう食生活が続くことに、私は、喜びを見出すようになりたい…!
ダイエット応援本だった
私が減量を意識しているからか、ダイエット本のように読める本書ですが、本当にダイエットに関して書かれている部分も散見されました。
たとえばここ。
目の前のお菓子を食べることは報酬だが、お菓子を我慢して、健康的な肉体や魅力的なスタイルを手に入れることもまた報酬だ。
食べすぎた結果太ったり、病気になることは罰則だといえる。
目の前の報酬ばかり楽しんでいると、将来報酬が得られないばかりか、いつか罰則を受けるハメになるということだ。(p.23)
うっ耳が痛い!!
そして現実が突きつけられる。
ダイエットは医師免許や、司法試験のような一度獲得すれば後は更新不要という種類のものではない。ダイエットは「お祭り」ではない。
ダイエットの目的は我慢なく続けられる「ライフスタイル」を見つけることにある。(p.235)
そう、ダイエットをイベントと捉え、「ちょっとやせたらOK」にしてしまったら、早晩もとの体重に戻ってしまう。イエス、いわゆるリバウンド。
チョコレートを我慢しているようでは、やっぱりまだ習慣には行き着けない。
どうしたら、チョコレートなしの食生活を、私の「ライフスタイル」として定着できるようになるのか…それを探る日々が、しばらく続きそうです。
習慣が習慣になるまでの過程
あなたの「習慣」は、何ですか?
それは、どのようにあなたの「習慣」になったんですか?
…と質問されても、「えっ、それはなんか自然に、なんとなく。気づかぬままに。。」と思うばかりで、なかなか言語化しづらいです。
でも筆者の佐々木さんは、自分の習慣が習慣になる過程をつぶさに観察したり思い出したりして、この本を書かれたんだろうなとわかる表現が随所にありました。
自分を信用しない
起きたくない時には毎回必ず「そろそろ疲れがたまってきているのかもしれないな」と同じことを思う。
あまりにも毎回思うので、もはや自分から出てくる意見でも信用しなくなった。(p.80)
多くの人は、寝起きの自分の声(眠い、あと5分だけ…)に耳を傾けて、その結果、寝坊するんだと思いますが…。
自分の意見を信用しないという斬新さ。
「眠いな」と、自分が思っても、その意見は無視していいんですね。笑
苦しみからの満足感があるから、習慣になる
ぼくもランニングを始めると10分くらいから身体がいつもの感覚とは切り替わりはじめ、身体を動かすこと自体が喜びになってくるのを感じる。
生物は余計なカロリーを抑えるほうが生き延びるのには都合がいいはずで、人間はおそらく通常このモードでできるだけ楽をしたいと思っている。
しかし、しばらく走り続けると、別のモードに切り替わっていくような感覚がある。
悩みや不安は薄れ、エネルギーがどこからか湧き、普段の生活では感じないようなやる気や自信の高まりを感じる。
息が上がるほどの状態はもちろん苦しいが、こんな風に適切な肉体的なストレスをかけると、運動した後も満足感がしばらく続く。
ただドーパミンを放出できれば快感であるのなら、苦しい思いなどわざわざしなくてもいい。
美味しい食べ物を食べるなど他にいくらでも方法はあるからだ。
しかし「強烈な満足感」となるとそこに必要なのは、適切な苦しみであり、ストレスなのだ。(p.98-99)
習慣と苦しみストレスの興味深い関係。
ちょっと苦しいことが、強烈な満足感になる…。
私にとっての、ブログもそうかも。
毎日書くのは苦しいけど、満足できるのは、ちょっと苦しいからなのかな?
この記事にしたって、こんなにたくさん付箋紙を貼りまくったものを、いったいどうすればいい?と思っていたのに、いざ、この本をブログで紹介するぞ、と決めたら、なんだかとても張り切ってレビューしているという。
再掲。笑。
とにかくすごい付箋の量なんですって…!
習慣は、淡々と続いているだけの状態
「苦しい」とは逆のようだけど、また、これも納得と思ったこと。
習慣自体を意識しなくなった時が、本当の習慣になった時かもしれないと思う。
ジムに行くのは5日で効果が出始めたが、その時はもちろん「続けなきゃ」という意識があった。
今は続けるための工夫を意識することも、続けなきゃという意識もあまりなく、ただ続いているという感覚だ。(p.246)
私のブログに関していえば、書くことが、すっかり当たり前になりました。
書かないと気持ち悪いから、書く。
ただ続いている感じです。
…で、ただ続けてきた結果、もうすぐ、連続更新365日になろうとしています。
1年、ブログを毎日続けよう、と思ったわけではないのですが、気づいたらもう、1年毎日書いていた。笑
そして意識しだすと、うっ、ちゃんと365日続くかな…! と不安になるという…。
9月5日が、365日間連続更新達成(予定)の日です。
習慣は、「ごほうび」でもある
すでに難易度が下がっていて楽しい習慣もある。
ぼくにとってはたとえば日記。
日記を書くことは、もはや何の苦労もない。
ネガティブな気持ちも日記に預ければ、すぐに晴れてくる。
ぼくにとっての日記は気晴らしであり、ごほうびだ。
(中略)
何かストレスがあっても日記にあたれば気持ちが軽くなってくる。
嫌な気持ちになった時も、走りに行けば確実に気分が変わる。
そうすると、さらにストレス解消だと信じてやっていた暴飲暴食や、衝動買いなどが必要なくなってくる。
こうして習慣の好循環が続いていく。
その様子を他の人が見ると「あの人はストイックだ」「意志が強い」という風に見えるだけだ。(p.260)
私にとって、ブログを書くことはごほうびです。
1年も連続で続けていてすごい!と言っていただけることもあるのですが、私はむしろ「書くな」と言われるほうがつらくて…。
4月の保育士試験の前に、試験勉強のためにブログの更新頻度を落とそうかと思ったのですが、失敗しました(笑)
私がストイックで、意志が強くて、なんとしてもブログを書き続けたい、と思っているから続いているというのはしっくりこなくて。
書かないと、頭がすっきりしないというか。考えが先に進まないというか。そんな感じなのですよ。
うん。ここまで読んでわかったのは、
始まったばかりの私の筋トレも、ブログみたいになればいいんですね。
やらないと気持ち悪いレベルにまでなればいいんだ…!
で、どうやって?^^;
明日の「後編」では、そのあたりについて、佐々木さんの文章を引用しながら、もう少し考えてみたいと思います。
今日もいい一日になりますように!