おはようございます。
梅つま子です。
今日は読書記録です。
最近読んだ新書『学ぶということ』が良かったのでご紹介です
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中学生に向けた講義を元に書かれたもののようで、内容はたいへん平易です。
平易なのですが、現代に生きる若者に向けて、識者が知恵を授ける形式の読み物としてとても良かった。
洗練され、かつエッジが立ってて、「この時代に子どもを育てる母として、どうしたらいいのか」を考えさせてくれる良書でした。
これ、シリーズものだそうなので、引き続き他の本も読もうかなと思っています。
今回の『学ぶということ』には、内田樹、岩井克人、斉藤環、湯浅誠、美馬達哉、鹿島茂、池上彰の6氏の講義が収録されています。
特にいいなと思った部分を引用します。
(太字強調は梅つま子によるものです)
生きる力を高める(内田樹)
僕は教育者として、子どもたちにはできることなら周囲の人から「あなたがいなくては生きていけない」と言われるような人になって欲しいと願っています。
親族の中心であり、地域の中心であり、仲間たちのなくてはならない中心であるような人間に育って欲しい。
それが教育者の願いです。
グローバル人材育成教育というのは「そんな人間は要らない」ということです。
家族たちの統合の要であり、地域共同体で祭礼の若頭をしていて、多くの友人に頼られている若者なんか、絶対にグローバル人材になれません。
周りから「君がいついなくなっても僕らは困らない」といわれるような人間になるべく自己形成しなさい、そう命じているのが「グローバル人材育成」です。
日本社会はそういう人材を大量に要求しています。(p.35)
本書はいきなり、この内容から入ります。なかなか鮮烈。
編者のメッセージが強く伝わります。
「グローバル人材」という言葉は、私が教育関係の仕事の現場にいたときも、非常~によく聴いていた言葉です。
今、一人の母親としてこの言葉を聞くと、背中がぴきっとします、「危機」を感じて…。
上記の文章は、
「文科省のグローバル人材育成や英語ができる日本人育成プログラムとかを掲載してあるホームページをぜひ読んでみてください。そこには「市民」も「成熟」も「幸福」も「知性」も、そういう単語は一つも出てきません。(中略)君たちがどういう市民に成長してゆくのか、どのようにして個人的幸福を実現するのかについて一行も書かれていない。はじめから終わりまで金の話だけです。(p.47)」
と続くのですが、さて、一人の母親として、これにどう対抗できるんだろう。
私は家で子どもを育てている母親だけど、自分の子育てが、「いついなくなってもいい人」を求めるグローバル化社会の先鋒にすり替わっていくのは、心から勘弁してほしい。
子どもたちには、替えのきかない一人の人間として、家庭の中に、地域の中に、友人の中に、社会の中にあってほしいです。
じゃあどうしたらいいのか、について著者の内田樹さんは正解を示していなくて、(正解のロールモデルが存在しないから)「あとは自分で考えてくれ」というしかないと書いているのですが…。
「君たちには自分の直感で選んでいただきたい。直感のほうが経験則よりもはるかに信じられるから(p.48)」、
「生きる力=生命の力が強い人は、不思議なことですが、出会うべき人に出会うべきときに出会います(p.49)」、
「生きる力はかたちのある、数値的に計測できる力ではありません。
出会うべき人に、本当に必要な出会うべきときに出会う。
聞くべき時に聞くべき言葉を聞き、知るべきときにそれを知っている人に出会う。
そういう力のことです(p.50)」
このあたりの言葉を手探りに子育てしていくしかないのかな、と思っています。
今、私がしているのは、正解なき時代の子育てなんだなと改めて思う。
自分がしている子育ては、生きる力を高めることにつながっているか…。
教育の現場を離れてしまった今となっては、自分にできることは、何があるだろう。
はなはだ自信がないけど、私は子どもを生み育てることで、未来への責任を一緒に担ったんだと考えているので、引き続き考えたい。
大きな挑戦のひとつです。
冒頭から、いきなり大きな崖を見せられた気がするのですが、そんな中で本書の中にも、ヒントが散りばめられているようでした。
考える方法(鹿島茂)
「すべてを疑う」は、デカルトの『方法序説』による、考える方法の4つの原則の一つ。
自分をも疑える子に育てるって、大事なことだよなあ。
それはともすれば、自信のない子を育てる、と解釈されてしまいそうなのだけど、その逆なのね。
自分の思考に自信がないと、自分を疑うことってできないからなあ。
考え抜いた末に、自分のことも疑えるようになれば、選択肢が広がる。
強靭でしなやかな思考を育てたいし、私も子どもを育てる過程で、自分の思考力をもう一度鍛えなおしたいと思っています。
私も皆さんの年頃のときには、自分は常に一番適確な判断ができると思っていました。
だから自分だけは疑っていなかった。
でも、本当にそうでしょうか。自分というものがどうやってできあがったのかを考えてみればわかります。
お父さんやお母さん、学校の先生、友だち、テレビ……いろんなものから影響を受けています。
だから「すべてを疑おう」とするとき、自分の中にそうした影響によって生じた偏った考え方が存在しているかもしれないと疑ってみなくてはなりません。(p.177)
子どもがこれからいろんな思考を試験的に始めていくときに、支えになれるような自分でありたいなあ。
同じ鹿島さんの部分から、もう一箇所引用します。
たとえば土地を買って家を建てるときには、敷地の面積に対する建物の面積が決まっていて、一定の空き地を確保しなければなりません。
法律で決められたこのルールを建ぺい率といいます。
しかし、なるべく広い家に住むほうが得なので、みんなが建ぺい率ギリギリに家を建てると、庭が狭く緑の少ない家ばかりになる。
そういうゴミゴミと建て込んだ町並みは、見た目が汚いし、地震があれば火事が燃え広がりやすく、消防車が入りにくい。
このように、みんなが自分にとって得なことだけを考え、建ぺい率ギリギリの家ばかりを建ててしまった町の資産価値は下がります。
すると、自分にとって一番得なことをしたつもりが、逆に一番損になってしまう。
それよりは、たとえ少し家が狭くなってしまったとしても、みんなが示し合わせて庭を広く取り、緑を増やして、建ぺい率に余裕のある家を建てたほうが、美しく安全な町になって資産価値が上がり、自分に一番得なことになるわけです。
こういうことをみんなの頭で一生懸命考えなければいけません。(p.183)
自分の利益だけを追い求めやすい(しかしその責任は自分で取る)社会になった今、
「みんなの”得”になることが、結局は自分の”得”になること」があるって理解することは、難しい。
そのためには、自分の頭で筋道立てて考えなくてはならないなと思います。
ところで、私の住む町は、隣の自治体に比べて比較的、緑地が多くあります。
昔、 父と電車に乗ったとき、「よく見ててごらん。急に緑が増えるから」と父が言ったんですね。
確かに、電車がある地点を越えたら、車窓から見える住宅地の中に、背の高い木がたくさんまぎれるようになった。
「昔から住んでる人が、庭に木を残してるんだよ」と父は言っていました。
隣の自治体のほうが利便性が高いし、わが町は土地が安いんだろうね~と私は思っていました。
自分の家の庭の木が、社会にどんな影響を与えているか。
相利共生の視点って、今の世の中、だいぶ理解されにくいんじゃないだろうか。
「市場経済は副産物の価値を損得勘定に算入することもできない」は、私の好きな言葉です。
学校教育で、そして家庭教育で、こういうの教えられるのかな。不安。
学び続ける原動力(池上彰)
先日、アメリカのマサチューセッツ工科大学を視察しました。
さぞ最先端の技術や知識を教えているのだろうと思っていましたが、意外なことに音楽教室にはピアノがズラッと並んでいて、一般教養も熱心に教えていました。
私はびっくりして「どうしてですか?」と尋ねました。
すると、最先端の技術や知識も教えているけれど、今の世の中のスピードでは四年も経つとそれらは古くなってしまう。
だからその時点の技術や知識ではなく、大学を卒業したあとに自ら新しい知識を吸収したり、自分で最先端の技術を作り出そうとしたりする能力こそ身につけさせるべきだと考えているというのです。
「すぐに役に立つことは、すぐに役に立たなくなる」
そう考えているのです。(p.216)
これはよく言われていることですが、何度聞いても、なるほどと思います。
わが子には、「役に立たないことやお金にならないけれど、人生が豊かになること」をたくさん持たせたいなあと思うんです。
私がそういうものを、上の世代からたくさんもらったように。
お金儲けは…正直、そこそこでいいよ。
(そこそこって…便利な言葉。笑)
今日もいい一日になりますように!