おはようございます。
梅つま子です。
先日お会いした、ミニマリスト子育てブロガーのはにさんの以下の記事を読み、
「おお、これは私が考えたいことだ!」
と思うテーマを、2つもいただきました。
はにさん、ありがとうございます!
ちなみに、はにさんたちとお会いした記事はこちら↓
はてなブログの育児ブロガー、5人が集結!子連れオフ会参加してきました。 - 明日も暮らす。
ひとつは、「ワーママの定義とは何か」
はにさんがツイッターでつぶやかれていたこと。
ワーママの定義ってなんだろう?
— はに🐝🎃@ブログ「みにまに」ライター/ブロガー (@hanisandayo) 2018年10月28日
・在宅フリーランスで月2万円
・内職で5万円
・スーパーのレジ打ちで10万円
・フリーランスで20万円
・時短正社員で手取り13万円
・管理職で手取り30万円
おそらく世間が「ワーママ」とするのは下の2つなんだけど、私はお金を稼いでいれば全員ワーママだと思うんだな
おお、ワーママの定義。
どうだろ、どうだろ。
辞書に書かれている語義と、自分の感覚と、社会の感覚と。
それぞれが「ワーキングマザー」をどう捉えているかって、きっと、ちょっとずつズレている感じがします。
まず、語義から調べてみよう
オンライン辞書を引くと、「ワーキングマザー」のその語義は、「家事・育児と仕事を両立させている母親」とあります。
この辞書を見る限り、稼いだ金額の多寡は書いていないし、「仕事」の報酬性についての記述もない。
だから、たとえ無報酬のボランティアでも、その人が「仕事」と認識していたら、ワーキングマザーになるのかな?
…うーん、でも私の心理的には、ちょっと違う気もします。
私の感覚では、
「雇用下にあって、上司や同僚たちとともに働くこと」
そして、
「会社ないし店舗など、勤務地に毎日通勤すること」
この2つが揃うと、自分では「ワーママ」っぽいと思っているみたいです。
つまり、フリーで働いていたり、在宅である場合(まさに今の私)、なんとなく「ワーママ」っぽさは薄めかなと感じてしまう。
あくまでも自分の感覚です。
私の場合は、2年半前の私が、まさに自分が思うワーママ的存在でした。
フルタイム、週5で勤務。時々は土曜日も出勤。
電車の乗換えまでして通勤時間は1時間半。
職場に着いたらデカイ建物にあふれる人、人。
たくさんある会議、たくさんいるエライ人。
そんな風にして過ごしていた「あのときの私こそ、THE・ワーママ」だと思う経験から、「今の自分はチガウ」と思うんだと思います。
私は今、何者だろう。
収入でいうと、ライターの仕事をさせていただいていることもあり、ゼロではありません。
だから「お金を稼いでいればワーママ」という、はにさんの定義で言うと、私は「ワーママ」になりそうです。
ただ、自分のアイデンティティとしてはそうじゃないんですね。
専業主婦だと思う。
なぜそう思うのか
上述のとおり、もう雇用下にはなくて、毎日通う場所もなく、収入が激減したからというのもあります。
収入の変化、それはとても大きい。
でも、自分の心理を掘り下げると…。
意外と、育児面の変化が大きいのかもしれません。
つまり、私の認識の中で、ワーママをワーママたらしめているのは、仕事の部分じゃなくて、育児の部分なのかもしれないと思い至りました。
「基本的に、外部機関を頼らずに家庭で育児をしている」から、私は自分をワーママじゃない、と思っている。
より具体的には、「保育園を利用していないから」もうワーママじゃない、と思っているところがあります。
ワーママ時代の私=保育園に子どもを預ける
専業主婦になった私=保育園に子どもを預けない
保育園を利用できるかどうかの条件というのは、就労だけじゃなくて、
就学や病気、出産なども含まれるので、「ワーママである証拠」にはならないのは承知なのです。
でも、それくらい、保育園というのは、かつての私にとって、存在が大きかったです。
ワーママ時代の自分の象徴ともいえるくらい、自分の生活に密着していました。
保育園があると助かる、なんてもんじゃありませんでした。
それなしで働くことなど考えられない。マジで詰む。
食事面、排泄面、運動面など、生活の多岐に渡ってサポート。
体調や成長を気にかけてくれ、時に、私が気づいてないことを教えてくれ、毎日の連絡帳ではモラルサポートまでしてくれる。
長時間預かってくれ、母親としての私の育児負担を、劇的に軽減させてくれました。
子どもが在籍することになった保育園には、子どもの引き出しが備えられ、タオル置き場が用意され、オムツ用バケツが置かれ、お昼寝用の布団が用意され。
それぞれには、その子を識別する、名前やマークが貼られて。
保育園に、子どもの存在がしっかり、その居場所が確保されます。
毎朝、保育園にわが子の名前があるのを見て、「この子には居場所があるな」というのを見て、ほっとしていました。
それを見て、私は自分の居場所も感じていました。
娘のことをかわいがって、心配してくれて、成長を見守ってくれる保育園がある。
ここに子どもを通わせていいということは、私も仕事をしていいということだと思って安心していました。
だから、退職して、就労状況が変わり、やがて保育園を退園しなければならなくなったときに、ものすごい喪失感を感じました。
保育園にはもう、娘の名前もシールもない。
連れていけない。体調不良を知らせる必要もない。娘の成長を一緒に追いかけてはくれない。
もう就労していないんだから当たり前だとはいえ、その変化があまりにも大きかったです。
だから私は、ワーママ時代の私と、今の私の違いは「保育園を利用しているか否か」で捉えたいと思ってしまうのかもしれないです。
保育園はすごい
辞めた今、強く思います。
保育園ってすごい。
一元的に管理されていて、乳幼児の育児を包括的に担うサービスとして非常に充実している。
(もちろん保育園によって、サービスには違いがあるとしても)
毎日、確実に預かってもらえる。
今日は早退、明日は延長といった預かり時間の希望も聞き入れられる。
昨日熱が出たなどの体調面の情報は、多くの場合、担任に伝えればよい。
親の就労状況などが変わらない場合、基本的に、1回預かってもらえれば、来年も再来年も、預かってもらえる。
これを、保育園のない状態でやろうとすると、ほぼ無理です。
どう、毎日の預かりの場所を確保するか。
例えば来週1週間、月曜から金曜まで、9時から16時まで預かってもらいたいとして、どうするか。
まずは保育園。
就労じゃなければリフレッシュとみなされるので、月に2回しか利用できません。しかも、空きがあればの話。
その次にファミサポ。
まずは面談をするから、利用はかなり早めに申し込まないとなりません。
ひとつのおうちでずっとみてもらえるということは考えにくいので、何軒ものおうちと面談して、計画を立てることが必要になりそう。
場所もまちまち。近くで見つかればいいけれど。
あるいは、キッズラインみたいなベビーシッターサービス。
こちらも見つかるとは限りません。一時間、1,500円くらいでしょうか。かなり割高になります。
…こういうのを、いったい何箇所に電話をかけたらよいのか。
場所ごとに、持ち物が違う。費用も違う。
運よく綱渡りで、預かり場所を確保したとしても、今日はどこへ連れて行き、何を持っていくのか、そして総額いくらかかるのか…。
それを把握するだけで、頭がパンクしそうになることでしょう。
こういうことを考えると、全部一箇所でやってくれる保育園って、やっぱりすごい。
そのすごいサービスを、もう私は利用できない、という一点だけで、「ああ、私は専業主婦なんだな」と思わせるに足るくらい、すごいなと思うのでした。
かつて娘を保育園に通わせていたことを思い出すと、
「子どもには2種類いて、保育園に居場所を持つ子と、それを持たない子がいるんだなあ…」と、しみじみ思います。
それくらい私は、保育園に依存していました。
それくらい、保育園というのはよくできたサービスなんだと思います。
「小1の壁」というのがあるけれど、それはひとつには、保育園というサービスを失ったあと、保育園で提供されていたサービスが小学校になると受けられなくなるということなのだろうと思っています。
…おっと、話題はもうひとつあるのに、話が長くなりました。
もうひとつは「熱狂(やりたいこと)は家族を犠牲にしなきゃいけないのか」
先述のはにさんのブログで提示されていた、もうひとつの問いはこれです。
はにさんの状況がとても興味深いので、ブログ記事から引用しますね。
私はブログとライター業と、あれとかあれとかやってて。
旦那も最近オンラインサロンなるものに入ってます。
3歳と0歳を育ててる身なのに、お互い好き勝手やってると、破綻するわけです。
お互い思いきりやれない部分があってね。平日にランチに誘われたら行きたいけど、子供がいるし、
サロンで飲み会に誘われたら行きたいけど、子供がいる。「子供がいる」を言い訳にしたくないけど、ある程度はあるじゃない。
じゃあ、「子どもを作らなければいい」は暴論なわけで。
(中略)
熱狂はどちらかが犠牲になる必要があるよね。ゆるフリーランスの私ですら、締め切りがやばい時は旦那に寝かしつけを頼んだり、子供を連れて出かけてもらいます(そうならないように気をつけてるけど)。
はっきり言って、私の熱狂は家族を犠牲にしていると思う。
というか、フリーランスで家族を犠牲にしてない人っています?いないよね。
たまに、そこまでして仕事をする意味って何なのかな?って思うのよね。
(とはいえ、締め切りは絶対に守るよ)
うんうん。
ぞくぞくします!わかる!
私なんか、「やりたいこと先行型」の人間なので、熱狂を我慢するのがほんと苦手です。
楽しみの先延ばしってほんと苦しい。
だから、ブログも毎日更新しているわけで…。
夫へのしわ寄せ?
私がやりたいことをやっているということは、夫にしわ寄せがいってる、のかな?
ゴクリ…。
私の夫は、やりたいことを仕事にした人です。
なので私はその点で、夫に、
「あなたは、やりたかった仕事に就けて、今もやっているからいいよね!」
「毎日仕事で自己実現してるじゃん」
と思ってしまっているかも。
その結果、
「私だって、やりたいことはやらせてもらうよ」
って思ってしまっているかも、…いえ、思っています!
さらには、
「私は一度退職して、一度はキャリアをあきらめたよ?でも、あなたはそれをしていないよね」
って思ってしまっている気がします。
ひどい!われながら、性格悪い!!
いやいや、落ち着けよ自分。
仕事をやめたのは自分のチョイスだし、私は家族計画と自分の心身面を考えて退職したのである。
家計を考えて、夫が残ったに過ぎないということ、忘れてはならん。
…でも私は、夫が、夫の好きなことを仕事にしているということにあぐらをかいてる。
夫ごめん。
やりたいことをやってるっていったって、仕事は責任伴うし、ストレスを感じながら仕事をしているし、激務には変わりないよね…。
書いて反省したよ…。
私が毎日ブログを更新しているのは、夫の職場の拘束時間が短めなのと、夫が育児を率先してやるタイプの人だからできることだと思っています。
帰宅すれば子どもと遊んでくれる。
その時間があるから、その時間に私はガッと家事をして、朝早起きして、私は一人の時間がとりやすいです。
もしかしたら夫は「早起きしたその時間も、もっと家事してくれればいいのになあ」と思っているかもしれません。
でも私は結局、ブログを書くことや筋トレ、友人に会うことといった、家事育児と直結しない「熱狂」を追求することに、罪悪感があまりないです。
燃費の悪い車みたいです。
けっこうな熱狂がないと、すごく動かなくなる。
きっと、機嫌が悪くなってて、イライラと家族に当り散らす。
夫は私のそのあたりをよく理解して、何も言わずにやりたいことをさせてくれるんだと思います。
涙出てきた
機嫌のいい人でいるためには熱狂が必要だから、それを犠牲と思っていないんです。
むしろ熱狂をなくしてしまったら、もっともっと家族に悪い形で影響が出てしまう。(脅しみたい?!)
熱狂のコントロールのために
もちろん、楽しいことも、やりすぎたらいけない。
私一人が楽しくって、家族が我慢しているんだったら、心からは楽しめない。
そのあたりの線引きは非常に難しい。
私は、なるべく自分の目標のハードルを下げた「ここまでできたらいいな」を用意しておいて、それが実現できたら「わーい、できた!」と喜ぶようにしています。
ほんの小さなことでも。
10分でも、筋トレができたらうれしい。
ひとつでも、気になっていた箇所が掃除できたらうれしい。
うれしいと感じるポイントが多ければ多いほど、簡単に幸せになれるような気がする。
もちろん、楽しいことはどんどんやりたいけど、もりもりガツガツ、やりたいことを優先しないようにします。
そして、やりたいことができたら、夫に感謝する。
熱狂を応援してくれる場所が、ない
私は、
母親の熱狂は、平常的に家事育児をまわしていくためのストレス解消として必要
と思っています。
そして、
それを「家族を犠牲にしてる」って思いたくない
と思っています。
でもこのあたりの構造って、前述の、保育園の話と結びついているんだと思います。
専業主婦にとって、比較的ラクに、そして確実に預けられる場所って、無いんですよね。
妻が子どもから離れるときには、祖父母等が日常的に助けてくれる家庭以外は、どうしても、夫が替わることになる。
今でも「リフレッシュ利用」として、保育園の一時預かりは利用できる。
だけど、月2回の利用だと持ち物も、毎回すごく大変(置きっ放しにできるものが、ほぼないから)。
そのときそのとき、担当の保育士さんに聞きながら、指定された毎回違う場所にタオルを置き、着替えを置き…。これって結構大変です。
さらに、子どもも慣れない場所なので(慣れるほど通えないから)、預けているうちのかなり長い時間を泣いて過ごすことになる(うちの子の場合)。
だから、私に、(熱狂関係も含む)用事ができたとき、「夫、お願い」になる。
お互いの熱狂を、家族が犠牲になってると思わなくて済むように、安心してさくっと預けられる場所が、外部にあるといいんですよね。
なかなかないし、あっても高いんだけど…。
まとめ
というわけで、
保育園を利用していないから、私は自分を専業主婦だと思ってる話
と、
母親の熱狂は、家庭を円満に回していくために私は必要だと思ってる話
でした。
このあたりの感覚はほんとに個人にとって違うと思いますので、「私は」を強調してみました。
今日もいい一日になりますように!