明日も暮らす。

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シンプルで暮らしやすい生活を目指しています。 2013年に娘を、2016年に息子を出産した2児の母。東京近郊在住です。 大学院修了後、教育関係の仕事に就いていましたが、現在は専業主婦です。

インターネット的な人ってどんな人?糸井重里『インターネット的』を読んで、インターネットとの付き合いをふり返る。

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おはようございます。

梅つま子です。

 

毎日朝からパソコンを開き、日中はスマホを肌身離さずのワタシ。

すっかりインターネットにつながることが日常になっています。

 

今日読んだのは『インターネット的』です。

著者はご存知、「ほぼ日」の糸井重里さん。

となりのトトロのお父さんの声の方ですね~!

 

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(注:なお、つま子が読んだのは、えんじ色の表紙の旧版のほうです。今流通しているのはこちらのほうなので、リンクはこちらを貼っておきます。引用した箇所のページ数も旧版のほうで紹介しています。)

 

先日読んだ、『WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE.』に紹介されていたのがきっかけで手に取った本です。

佐渡島 庸平 幻冬舎 2018-05-09
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アマゾンのレビューより

アマゾンや楽天のレビューをよく見るのですが、わかりやすいレビューが、アマゾンにありました!(太字強調は梅つま子)

きし ☆☆☆☆☆「あああ、面白かったーっ」2016年8月2日
インターネットと「インターネット的」のちがいは、自動車とモータリゼーションのちがいに似ている。自動車が浸透することによって、それにまつわるモータリゼーションという世界が拓ける。

インターネットは「伝える仕組み」である。情報という「料理」を届ける「お皿」だ。そして一番面白いのは「料理」のはすだが、それについて書かれた本は少ない。みんな「お皿」ばかりを語っている。それではクリエイティビティが育たない。

インターネット的とは「リンク・シェア・フラット」だ。情報はたくさん出したひとのところに集まる。おすそわけをしている人のところには「これもあなたが配ってください」という新しい情報が集まる。そして豊かな社会には多様な価値観がうまれ、プライオリティの組み替えは個人の自由になってゆく。

…ということを糸井重里は2001年に書いていたのです。これはすごい。

このレビュー、本書の内容がよくまとまっていると思ったのでご紹介しておきます。

こういうレビューに出会えるから面白いんですよね、レビュー読むの。

全体像のお話、この本に何が書いてあるのかは、上記のレビューがうまくカバーしているので、私は瑣末なところで、心に留まったところをご紹介します。

 

インターネット的ってどんなこと?

本書の初版が出されたのが2001年で、そのころはまだ比較的「インターネット」が新しかったんだと思います。

たぶん、人々が普通にインターネットを当たり前に活用し始めた時期かと思います。

 年表で読み解く携帯電話の30年 いまケータイはどこまで進んでいる? | nuroモバイル

こちらを参照すると、写真つきメールサービス(いわゆる写メですな)が始まったのが2002年。

ちなみにiphoneが出たのが2007年なのですね。インターネットはまだパソコンのものだった時代ですね。スマホはまだまだ。

 

 で、本書は、「インターネット的」というタイトルの解説から始まります。

ぼくとしては、インターネット自体よりも、それがもたらす”インターネット的であること”に、より可能性を感じています。

インターネットは人と人をつなげるだけで、それ自体が何かを作り出すものではありませんから、豊かなものになっていくかどうかは、それを使う人が何をどう思っているかにかかっているのではないでしょうか。

つまり、”人とつながれる””乱反射的につながる””ソフトや距離を無限に圧縮できる””考えたことを熟さずに出せる”などなど、人の思いが楽々と自由に無限に解放されてゆく空間。

こういった「情報社会」に生きている僕たちの身体や考え方、生き方は、どんどん、このようなインターネット的になっていると思います。

(『インターネット的 (PHP文庫)』p.10)

毎日自分のブログを書き、誰かの書いたブログを読むという生活が当たり前になっている私。

思いをことばにし、発信することが習慣になっているし、会ったこともない、でもこの今、どこかで生活している誰かの思いを手に取るように身近に感じるのも当たり前。

この習慣は、インターネットというモノが可能にしてくれたことです。

インターネットがなければできないこと。

自分たちの身体や考え方、生き方自体が、インターネットを受け入れ、変わってきたんだなと思いました。

インターネットを使う前と使い始めた後、その変化は大きいけど、あっという間に当たり前に、身体にしみこんだ気がします。

わからないことがあったらグーグルで検索するし、ふっと誰にともなく言いたいことが浮かんだら、ツイッターにつぶやき。

インターネットと出会う以前だったら、調べものは誰かに聞いたり図書館に行ったりしたし、「ふと、誰かに言いたいこと」は、言いたい相手を思いつかなければ、自分の中に消えていくだけ。

「こういうときはこうする」が、インターネット以前と以後で完全に変わったなと思います。

 

クリエイティブであることの価値

アイディアやクリエイティブこそが、社会の核をつくるものだし、人間の英知のすべてとすら言えるはずなのに、『アリとキリギリス』の寓話でも、キリギリスは死んでいくという結末になっています。

キリギリスは、楽しい演奏や美しい歌を残したのにもかかわらず、です。

(『インターネット的 (PHP文庫)』p.63-65)

糸井さんが『ほぼ日』を始めたきっかけが語られる章での一節です。

確かに『アリとキリギリス』の寓話で、キリギリスってひどい扱い。

「働くべきところを、遊び暮らしたから、悲惨な末路。ざまーみろ」みたいに。

長らく、「遊ぶこと=悪徳、勤勉であること=美徳」、といわれてきて、それは正しいんだろうけど、遊び楽しむことも、やっぱり、「今」という時間の正しい使い方だよなあと思います。

 

 

そういえば、名作『フレデリック』では、「キリギリス不遇問題」が解決されていますね。

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 話はインターネットに戻って。

インターネットという、誰でも、どんな小さな楽しみでも分かち合えるツールが生まれたことで、キリギリスたちも報われたのだなあ…と思えます。

自分はというと、どちらかというと、冒険のできないアリタイプの人間。

だけどインターネット上では、リアルよりちょっとだけ、ふざけたり楽しんだりしやすいのかも。

自己分析すると、私は「アリ人間」だと思ってたけど、別に元から「100%アリ」でもなかった気がします。インターネットのおかげで、ちょっとだけ、自分のもともと持っていたキリギリスの一面を出せたのかな(笑)

あるいは、インターネットのおかげで、誰もが小さなキリギリスになれるようになったといえるかも。

 

小さなキリギリスたちを包摂する社会って、豊かだと思う。

 

失敗すること、間違うことの意味

「やりたければやる」「選びたいものがあったら、もっといいものを待つよりも、すぐにやる」というのがインターネット的なのではないかと考えています。

(中略)

やりたいことを逡巡しないでやってみて「まともに間違う」こと、そして次の何かを待っているよりも早く成功なり失敗なりをして「何度でも試す」という方法なのではないでしょうか。

とてもイージーな例で考えてみます。たとえば、映画に行くと決めたとする。

(中略)

面白かったら、それでよしですね。

つまらなかったら、また行けばいいじゃないですか、他の映画に。

経費がかかる?それはそうです。

でも、観たかったんでしょう、映画が。

誰もあなたを脅迫して映画に連れていったわけではないのですから、自分の判断が外れていたということです。

どうして、つまらない映画を選んでしまったのでしょうか?

それについて考えるのも、自分の仕事です。

そうやって、経験が積まれていくのですから、つまらない映画を観たからといって、たいした損はないでしょう。

もともと、「やりたいからやった」のが、映画を観に行くことだったのですからね。

(『インターネット的 (PHP文庫)』p.117-118)

誰もが、失敗を避けたいもの。

選択という選択はすべて正解したい、最短距離で正解を得たい!とどうしても思ってしまうけど、損をするのも人生のうちなのですよね。

そうしないと勉強にならないわけで 。

 

糸井さんは、

選択問題の答えを求められて、『どっちでもいいんじゃないか』と、この頃ほんとうに思うのです。

無責任に思う人もいるでしょうが、よくよく考えてみたら、どっちでもいいんですよ、だいたいは。

(『インターネット的 (PHP文庫)』p.130-131)

 

『どっちでもOKなんじゃないの?』これは、けっこう失敗してきている自分にも、ときどき言ってやっているマジックワードです。

(『インターネット的 (PHP文庫)』p.133) 

と繰り返し書かれているので、本当にどっちでもいいんだろうな、と思えてきました(笑)

糸井さんの文章を読んでいると、ふっと肩の荷が下りるような気がします。

 

クリエイティブな消費者になる

おいしく焼き豚を食べているときのことです。

ひとりの客人が「日本に多いのは、焼き豚でなくて”煮豚”である」という話を始めました。

たしかに、そうなのかもしれません。

チャーシューと呼ばれているもののほとんどが、糸でグルグル巻きにした豚肉を、タレで煮込んだものです。

その通りだと思うものの、なんとなくその話は「何か違う」ような気がしました。

(中略)

自分でもよくやることなのですが、「ひとつのものを肯定したり賞賛したりするために、他のものを並列的に例にひいて、そちらを否定する」ということが、ぼくが言っている「消費のクリエイティブ」を、育ちにくくしているのではないか。

(中略)

並列に語るべき他の何かがダメだからといって、「それ」の訴えているよさを味わったことにはなりません。

しかし、そういう相対的な評価軸を持つと、何でも言えてしまうので、とても便利なんです。

その便利をぼくらが手放すことはとても難しい。

でも、簡単な便利を、いったんは「ない」ことにするのが、これからの「消費のクリエイティブ」の練習なのではないでしょうか。

(『インターネット的 (PHP文庫)』p.217-219)

私もブロガーのはしくれとして、文章を書いているとついつい、「比較するとわかりやすいかな」なんて考えてしまって、「AじゃなくてBが好き」、「AよりもBがいい」、という書きぶりになってたりします。

でも、私がAよりBがいいと思っても、Aがいいと思っている人だっているわけで。

それはそれでよくて。

どっちがホントにいいかを、勝負させたいわけじゃない。

どちらかを貶めたり、優劣対決をしたいわけじゃないんですよね。

その優劣争いの袋小路に入り込むと、キリキリするし、いいことないなあと思います。

 

いいと思ったものを、他と比べないで誉める練習というのをやってみるというのは、どうでしょう。(『インターネット的 (PHP文庫)』p.220) 

と糸井さんが書かれているんで、私もそれをやってみようかな。

出来るかな?難しそうだ。

 

終わりに

とりあえず本書は、私の読んだことのある類書よりもよかったよ!という必要もないくらい、良書でした(笑)

というよりか、類書を思いつきません。

押し付けがましくないし、糸井さんという「インターネット上の叔父さん」の言ってることを、うんうん、なるほどなあと言いながら、雑談的に読める本(糸井さんは私の父親よりも少し年下です)って感じです。

 

当たり前のように使っているインターネットとの付き合い方を、ちょっと見直させてくれる一冊でした。

なんとなく、電車の中とか、午後の空き時間とかに、ふと取り出して読むのにいい感じの本です。

 

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今日もいい一日になりますように!

 

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