おはようございます。
梅つま子です。
とろろさんの記事に触発されて、高校受験をふり返りたいと思います。
24年前の。
えっ?!14年の間違いじゃないの?と思いましたよね~。
なんか、24年前みたいなんですわ。
まあよい…。
中学時代
通っていた中学
地元の公立中学です。
荒れてました!大荒れ。ヤバい荒れ。
地元のヤンキーが集う中学でした。
時代としては90年代に入ったところ、もう不良文化は下火になっていたと思いますが、男子たちは「ボンタン」とか履いてましたね…。
知ってます?いわゆる変形学生服ですね。足首が細くて、腿の部分がぶかっとなってるズボン。
もちろん全員が全員不良っていうことはありませんが、喫煙・飲酒・万引きなどの話はクラスに飛び交い、日常的に聞いていました。
私、ほんっと、この中学に行きたくない、と小学校のときから思っていて。
残念なことだけど、今も母校に対する愛着がありません。
自分が卒業した学校の中で唯一「行かなくてもよかった学校」という位置づけ。
でも学区だったし、当時は今ほど越境というのが当たり前でなかったし、3つ上の姉が当たり前に通っていたので、私も姉の卒業と同時に通うことになりました。
駅から離れた(=さびれた)方向に、45分も歩いて通うの…イヤでした。
小学校のとき私は新聞委員会というものに入っていて、紙面をきれいに作り上げるのがなかなか楽しかったもので、中学校に入ってもやりたいなと思っていたのですが、姉に言うと「やめな。レベル低いよ」とのこと。
小学校より中学校のほうがレベル低いってことがあるか?と思ったら、本当にそうだった。
親の違い…?教育熱心な層の多い小学校と、子どもへの教育の関心が薄い層の中学校だったということかなと今となっては認識しています。
それが遠因となって、教員の熱心さも違ったのかも。
とにかく、中学校の学校新聞は、小学校で作成していた新聞の、下書きよりひどいものが完成版して刷り上ってくる…衝撃でした。
中学校に入学すると、登校の途中で不良の先輩が待ち構えています。
坂を上った先に、2人組みの女の先輩が立っているの。
体操服を制服の下に着ていないと知ると「着てないの?着てきて」と指導が入ります。
そんな校則はないのに。
はあ、ほんとイヤでした。
イヤしか出ないです~。
イヤしか出ない中で、何が一番イヤだったかって考えてみると、荒れた学校の雰囲気の中で、「正当にがんばる」ことができなかったこと。
中学生って、いかにも青臭いことを、まっすぐに出来る年齢なのに。
がんばるなんてバカみたいだ、斜に構えて過ごそうぜ、いかにずるく、悪いことを出来るかを探そうぜ…みたいな雰囲気でした。
まっとうに自分の持てる力をぶつけよう、出来ないこともがんばって取り組もう、クラス一丸となって…といった雰囲気にほとんどなれなかった。
私は、成績が悪いほうではありませんでした(トップでもないけど。悲しい~)が、それだけで「イキがってる」って言われるの!
そのうえにさらに生徒会とかやるともう「イキがってる」としか言われないの!!
意味がわからない。もう、ほんとイヤでしたー!勘弁してー!!
いい思い出、まるでないんですよね~。
行きたかった中学がありました
そんな私にも、本当は行きたかった中学がありました。
身の程知らず過ぎて振り切れてるレベルだから書いちゃうけど、女子御三家で名を馳せる、かの有名な桜蔭中学校です。
キャー恥ずかしい!恥ずかしい!
小学校の頃の憧れの先輩(新聞委員会で一緒だった、何でも出来る系のコ)が入学した学校で、文化祭に遊びに行ったときに、校舎や生徒たちの雰囲気に、もう一目ぼれ。
周囲に受験する子は多かったけれど、でも私は受験勉強なんて何もしていなかったし、桜蔭中学が自分の身の丈に合った中学とは思えない。
「受けたい」なんて親に言えなくて。言ったところで受け入れられるとは思えなかった。
笑われて、さらに傷つきたくなかったんですね。
遠い・荒れている地元の中学に通う運命(さだめと読んでください)の自分が泣けて泣けて…小学校6年生のある日、悲しさが募って、ほんとに自室で泣きましたね。
母が心配して「どうしたの?いじめられてるの?」と聞いてきたけど、言えなかったな、「受験したい」なんて。
でも、のちに、「女の子だし、私立行かせる?」という話が、姉が中学に上がる前に、我が家で、祖母を中心に持ち上がったらしいということを知りました。
祖母が、父母に提案したのかな?
まあでも、両親の意向があって「うちは公立だよ」になったんですね。姉が結構たくましいタイプだったからかな。
昭和の上昇気流というか、やってできないことはない!やられたらやり返せ!的な、雑な勢いが、家庭にも地域にもあった気がする。
社会というのはいろんな人から構成されているものであって、いろんな人の中で揉まれるべきだと、親は考えたと思います。
荒れた中学で、娘たちがどれほどのことができるのか見ようという気持ちも、あったのかな。
姉のこと
私には3歳年上の優秀な姉がいます。
私と入れ違いで、上述の、荒れ放題・地元ヤンキー中学を卒業しました。
で、彼女は実際に、荒れ放題の中学校で、華々しい活躍をしました。
成績優秀のうえに、運動系の部活の部長。
そして、地域で一番レベルの高い公立高校に入学。
3歳違いの宿命なのですが、姉の担任だった学年の先生方が、まとめて私の学年に降りてくるんですね。
「あの優秀な、梅の妹」と言われ続ける3年間が待ってます。
そうなってくると、「お姉ちゃんに追いつけ追い越せね!」としか言われて育っていない妹としては、他にノーチョイスなわけです。
荒れ放題中学を泳ぎ切り→地域一番の公立高校を目指せ
という図式しかない。
他の道を見出せるほどの柔軟性も発想力もない。
「追いつけ追い越せ」と言われると、そうできるような気もするし、そうならないと自分に価値がないような気がするってもんです。
イヤだった中学。
でも、入ってしまったら仕方ない。
もう逃げられない。
周りは不良だらけだけど、とりあえず勉強すれば一目置かれる(「イキがってる」とも言われるけどね…)ということに活路を見出し、姉が入学した公立高校に入学することを心に決めて、3年間を過ごしました。
父のこと
父は私の中学校時代、PTA会長を引き受けました。
(このことも「イキがってる」 といわれた原因。だから何で父親がPTA会長だと子どもがイキがっているになるんだよ…)
放課後に地域の人や中学生が参加できるクラブを立ち上げたりして(私は入らなかったけど)精力的に活動していた模様。
父は柔道部だったしボディビルもやってたし体育会系で、姉には運動部に入るように言いました。
私に対しては、運動能力のなさと、それを超す根性のなさを見込んだのでしょう、運動部命令は来ませんでした。
マラソン大会で、父はゴールで120人中60位で帰ってくる娘を、どう見ていたのやら。
応援し甲斐のない娘よね。
高校受験
おばあちゃんの一言で燃える
運動面はいうまでもなく、成績の面でも、姉と比べて劣るところが多かったもので、姉と同じ公立高校を第一希望としたことに、心配されました。
だよね。じゃなきゃ「追いつけ追い越せ」なんて言われないさ。
祖母に「つま子は**高校にすれば」と言われましたっけ。
提案された**高校は2番手の学校です。
おばあちゃん、ストレート。
今考えると、「妥当」と思うのですが、その当時は、バカにしおって!ヒドイ!と思いました。それでますます燃えるという…。
しかし、それだけ心配される成績だったってことよね。
他方で、孫娘を買いかぶるタイプでもあったおばあちゃんは「うちの子は成績がいいんで、塾は必要ない」と、塾の勧誘を断ったりもしてましたね…(実際は、めちゃめちゃ、塾のお世話になりました)。
大正生まれのアンビバレンツ。
おばあちゃんにも揺れる思いがあったのね、ということで…。
その他の受験校
第2希望の私立は、姉が受けたところから1ランク下げたところを受験。
何とか受かりましたが、ラクラク入れるはずだった第3希望は、なんと面接で、通っている中学の名前を間違え、それが災いしてか、補欠入学的な扱いになりました。
(例えていうと「はてな区立第2中学」が正式名称なのに「はてな区立はてな第2中学」と言ってしまったの。アホだ。でも、なんせ愛着のない学校だから名前もテキトウにしか覚えない)
で、無謀にも、国立大学の附属高校もひとつ受験しました。
過去問も解いていましたが、まーあ、箸にも棒にもかからない。
憧れだけで受験。もちろん、華麗に落ちました!
が、高校受験で玉砕したその10年後、同じ敷地内にある、大学院の門を叩くことに。
修士課程にはめでたく入学を許され、博士課程、そしてポスドクまで7年も在籍していたのだから、縁というのはわからないもんです。
いざ、受験
話を元に戻して、第一志望の公立高校。
公立の入試は2日間かけて行われました。
風邪こそ引かなかったものの、前日、眠れない…。
あまりにも眠れなくて母に「眠れない」と言いに行きました。
母は心配して起きるでもなく、「眠れなくても目をつぶってるだけでいいよ」と言って寝続けてました。
母のスルー力は見習うべきものがあります。
試験はいわゆる5教科で、国語・数学・英語・理科・社会でした。
志望校は、450点取らないと難しいと言われていて、つまり各90点取らないといけないわけで。
で、結果から申しますと。
当時から完全文系の私、数学で65点取ってしまいましたー!!!
受験の最中、数学の問題を解きながら、自分でも、得点できてないことがわかりました。
「コレはまずい」と自分でもわかり、窓の外を見て「私はこの高校で3年間を過ごすことは出来ないのだろうか」との思いがよぎりました…。
数学の結果を、通っていた塾の先生に話したところ、「かわいそうに。落ちたな」と思ったらしいです。
でも意地で他の科目では全力を出したつもり。
英語と社会で100点。
国語が92点、理科が85点。
合計442点。
盛り返したつもりだったけど、450点欲しいところの442点では厳しい。
当落上というか、8割落ちたな~と思っていました。
合格発表
泣きそうになりながら、母と一緒に合格発表を見に行きました。
この信号を渡ったら高校、というところで、
「ママも、パパと結婚したときドキドキしたのよ」と言う母。
母、いつも何かがズレている。
果たして自分の番号は…そこにあり、泣きました。ホントに。
中学生活からの、高校生活の差に驚く
中学校のことは今でも「あの学校に行ってなければどんな中学生活だったんだろう」と思うことがあります。
はあ、ホントなら、中学では、バカみたいに青春に燃えて「もっとまじめに歌おうよ!」とか合唱祭でハッスルしたりさ、オタクな友達と出会って漫画三昧とかしたかったのよなあ。。。
高校に対しても、まったく逆の意味で「あの学校に行ってなければどんな高校生活だったんだろう」と思う。
それくらい大切で、意味のある素晴らしい日々でした。
今の自分の原型がつくられたのは高校の3年間だと思う。
いろいろびっくりしたけど、男の子たちが異常に優しくて穏やかなのにびっくりしました。
入学当初は毎日、中学校からの高低差でキーンとなってました。
まず、「梅さん」と呼ばれる。
(中学では「梅!(怒声)」としか呼ばれない。)
落とした消しゴムが返ってくる。
(中学では落としたら最後、切り刻まれてしまう。)
今思うとむしろ高校が「普通」ですね。
いちいちびっくりしてました。^^;
余裕があって、知的で、人の話を聞けて、優しくて…。
クラスメイトたちを、「きちんと育てられた子なんだなあ…」という目で見てました。
なんで中学がこんな風だったのかについては、今でも思い出すことがあります。
中学3年生のとき、高校受験も迫った日のこと。
クラスの男子生徒が「**高校は奨学金が月*万もらえるんだってよ。そんなん、めちゃくちゃ親孝行だよな」と言っているのを聞いてびっくりしました。
中学が荒れてる一端が見えた気がしました。
お金のことで、親からプレッシャーをかけられてるのか、この子達は。
そりゃ、自分にかかる教育費のことでプレッシャーをかけられたら、ストレスで荒れて学校で発散するしかないわ。
そう思ったんですね。
何の原因もなく不良化するわけもないので、中学校の不良たちにもそれなりの理由があったんだろうな。
中学校で私は成績は悪くなかったのですが、それでも300人位いて、最高で3位だったんですよね。
てことは常に2人以上、私よりも上位の成績の子たちがいたわけで。
特定できていないですが、その子たちはどうやって中学時代を過ごしていたんだろう。
意外と、いわゆる不良たちともうまくやれてたのかな~という気がします。
本当に賢い人たちというのはどんなタイプとも楽しくやれるもので、私のように「キライ。無理」と思ってフリーズするタイプとは違うんだろうと思うんですよね。
ともあれ、「あの3年間を潜り抜けて志望校に受かった」という点でしか価値を置けない3年間だったんです、私の中学時代は。
高校に受かったからよかったものの、落ちてたらどうなってたんだ。
…などと思うものの、上述の男子生徒のことなどを思い出すと胸が痛いです。
…というわけで、私の高校受験の記録でした。
受験そのものというよりも、中学校の話のほうが長くなってしまった^^;
私は、これまでの人生の中で、高校受験を皮切りに、大学・大学院(修士)・大学院(博士)・ポスドクになるための試験…、と、受験をいっぱいしてきました(英検とか保育士試験とかもありますな)。
でも一番記憶に残っているのが、この、一番昔の、高校受験のことかもしれません。
ほろ苦くも、自分で自分の志望校を勝ち取った、大事な思い出。
だから今がんばってる方々を見ると応援せずにはいられません。
高校受験真っ最中のちゃるめんさんちのご長男~!がんばれー!
今日もいい一日になりますように!