おはようございます。
梅つま子です。
先日、仲間に声をかけられて、久しぶりに「研究」を始めました。
今はデータ収集と分析の段階です。
仲間の力強さに引っ張ってもらいながら、進めております。
最近は、「夕方から夜の時間が、家を空けやすい」ということに気づいた私。
子どもたちを午前中遊ばせてから、おもむろに「じゃっ、ママ、出かけてくるからね」ということで、夫にあとをヨロシクして、ミーティングに出かけました。
研究仲間の一人は、職場で学生の進学指導をするような立場にあります。
必要にかられて、キャリア教育に関する資格を得るまでになった人。
そこの勉強会で知ったことなんだけど、と、新しい知識を教えてくれました。
それが、「今の私の状況を説明するのにぴったり」な理論だったのです…!
その理論とは「プランドハップンスタンスセオリー」
カタカナで書くと、「ドップラーデュープリカート」並みに呪文なのですが、Planned Happenstance Theoryです。
日本語だと「計画的偶発性理論」だそうですが、なんか英語のほうがわかりやすい。
(太字強調は梅つま子によるものです。以下同様)
スタンフォード大学のジョン・D・クランボルツ教授によって提唱されたこの理論は、「個人のキャリアの8割は予想しない偶発的なことによって決定される」とし、その偶然を計画的に設計して自分のキャリアを良いものにしていこう、というキャリアパスに関するポジティブな考え方です。
だそうです。
この理論を教えてくれた友人は、「個人のキャリアの8割は予想しない偶発的なことによって決定される」ことに完全に同意で、「今の自分は、まさにそう」と言っていました。
彼女が会社を辞めて現在の仕事を始めたのは、とある出張で経験した出来事がきっかけだったそう。
その後、大学院に入学したのも、たまたま経験したイベントで参加した人がその大学院の聴講生で、熱心に誘われて…といった具合。
もちろん、最終的に何をどうするか、そこに彼女の意思はあります。
自分の意思に従っての選択や決断、行動ではあるんだけど、経験したひとつひとつの出来事で、そこに誰がいるか、何が起こるかは、コントロール不可なこと。
自分で選んだわけではなくて、まさに「偶発的な」出来事によって、導かれるように、今の立場にいるんだそうです。
うん、よくわかる。
私もそうです。
予想しない偶発的なことによって、何かを選択したり、意思決定してきた私。
もし、学部生のときに受けた大学院入試に受かっていたら、学部卒業後は就職しなかったと思うもん。
このときは結局、就職しました。
もし、最初の就職先で「嘱託」という立場じゃなくて、正規で雇われていたら、大学院に行こうという気持ちにはならなかったかもしれないもの。
「ここでは正規職員にしてあげられないよ」と言われたから、次に行く先として大学院を考え始めた。
20世紀末に発表されたこの理論が米国で注目を集めた背景には、「自分のキャリアは自分自身で意図的に職歴を積み上げて形成するもの」という従来型のキャリア論の限界がありました。
それまでは「自分の興味、適性、能力、周囲の環境などを合理的に分析すれば、目指すべき最終ゴールやそこへ至るステップアップの道筋までが明確になる」はずと考えられてきましたが、実際にはそうしたアプローチが必ずしも有効とは限らないことが分かってきていたのです。
そうなのよ…!
目標達成のための正しいアプローチは、あるように見えて、実はなかったり。
なぜ今私がここにこうしているかは、ただの偶然の積み重ねなのだとはっきりわかる。
そこに、自分の意図の介在する余地って、実はほとんどない。
だから、目標を立てようとするとつらい
子どもを産んでからというもの、「うまく目標が立てられなくなったなあ」、としみじみ思っていました。
2018年なんて、「目標の立て方が下手だ」から始まりました。
これは2018年1月1日の日記です。
私は目標の立て方が下手だなあと。
目標の立て方が下手だと、自分へのねぎらいも下手になるんですよね。
自分にしてはがんばれたかな?と思ったことがあったとしても、目標に照らしてどうなのかが釈然としないため、なんとなくうやむやに終わる。
もしも、うまく目標を立てて、その目標に向かって努力した結果として出た成果なら、いい感じに自分にごほうびもできて、さらにそのサイクルが加速しそうなものなのに。
目標の立て方が下手なため、自分の努力が見えづらい。
そして2018年の締めくくりは、「目標の立て方が下手だと言わざるを得ない」で終わったんです!!
2018年12月31日の日記はこう。
なぜに評価が低めかと言うと、「目標に立てたことと、実際にやったことが、どうにもこうにもミスマッチ」だからです!
目標に沿って行動しなかった自由すぎる自分のせいではありますが、やはり圧倒的に、目標の立て方が下手だと言わざるを得ない。
我ながら、あわれすぎる。
でも、そもそも私の生活は、自分の生活をプランドハップンスタンスセオリーの言うところの「予想しない偶発的なこと」に左右されすぎている。
目標立てるのが下手なのは、あるとしても。
圧倒的に時間がない!
そして、目標遂行のために動ける自由さも、身軽さもないのです。
時間がないのに、自由でもないのに、目標を立てられるのは難しい。
なぜなら、大概の場合、目標を遂行するための努力は、時間と自由がなければ払えないものだから…。
そんなときに目標を立てようとすると、ものすごいかすかな、目標ともいえないようなものになるか、大風呂敷広げたようなことになり、大体失敗に終わって、自分が傷つく。
ああ、目標を立てるのが下手だったね。やりたかったことができなかったね。
無駄にへこむ。
だったらもしかしたら、目標を立てないほうがスマートなんじゃないの?とすら思うわけです。
冒頭の友人は、
「よく、『今の時代、60歳退職は早い。その後のキャリアプランを考えましょう!』っていうけど、何らかの状況で目標達成できなくなったとき、キツいよね。
若いころだったら、まだいいけどね」
と言っていました。
そう。
人間年老いてくると、健康面の問題が出がち。
あと、お金の問題も。
やりたい意志はあっても、何らかの理由でそれが遂行できなくなったとき、一度夢を描いてしまったあとだと、苦しくないだろうか。
その目標、立てるべきだったのだろうか。
目標を立てることに意義があったかもしれない。
でも、もしかしたら目標を立てなかったら、もう少し楽だったのかもしれない。
私には、まだわかりません。
ケア責任のある人が自分の人生に目標を立てようとすること
私がまだ20代だったとき、同居する祖母と父が要介護になりました。
祖母と父のの介護を一手に担ったのは母です。
母が、祖母と父の介護を引き受けてくれたおかげで、私はのらりくらりと、自分の裁量で自分の時間をすべて自分のために費やし、自分の”目標”を追求することができました。
留学し、大学院に進学し。
経済面こそやりくりが必要だったけど、それを除いてはやりたい放題だったわけです。
そのころ、母の目標はなんだったんだろう、母個人の目標は?
私は家庭のことに関心を持つこともなく、母に甘えて、介護は何もしないどころか、母のことを思いやることさえしなかったな…。
そして今。
5歳の娘や2歳の息子の育児をしている私は、娘や息子のお世話をするし、もし何かあったら、一番に動くべき人間です。
夫がもし働くことができなくなったら、代わりに働くのも私。
「何かあったら動ける人」として、常に身を整えておく必要がある人、それが私。
そんな中で、
「*月*日までに***をする」
みたいな目標の立て方って、最も、しづらいもののひとつなんですよね。
でも、じゃあ目標持たずにいられるかって?無理だ~
「ワタシは、目標からは離れて、自由に生きていきまーす!」っていえたら、それはそれで清々しいのですが、やっぱりそれも違う気がする。
学校教育に、頭のてっぺんからつま先まで、めちゃめちゃ長い時間漬かっていたせいか、やっぱり「目標」があったほうがよいように思えてしまう。
目標がバーンと立っていると、なんか心地よいんです。
で、今年の目標はこういうのを掲げていました。
好きにやる。
これ、今見ると…もはや目標ではないーーー!
標語ですかね。笑
長くなったので、続きはまた明日書こうと思います
▼詳しいことはこの本に書いてあるみたいです。読みたい!▼
ジョン・D.クランボルツ/アル・S.レヴィン ダイヤモンド社 2005年11月 売り上げランキング :
|
惹かれてます。
「みなさんには、今後一切キャリアに関する意思決定をしないでほしいのです」という著者のアドバイスは痛烈ですが、大学生や若手ビジネスパーソンなど、人生や仕事の転機に直面している多くの人々にとって、示唆に富み勇気を与えてくれる書となっています。
今日もいい一日になりますように!