おはようございます。
梅つま子です。
前回書いた、「ADHDと私」のハナシです。
前回から読んでいる本。
最新版 よくわかる大人のADHD(注意欠如/多動性障害) 司馬理英子 主婦の友社 2017年02月02日頃 売り上げランキング :
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そして、新たにこの本も読みました。
大人のADHD 岩波明 筑摩書房 2015年07月 売り上げランキング :
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私はADHDなのだろうか?
前回の記事に書いたとおり、ADHDっぽさがあるなあ、とは感じつつ、
正式な診断を受けたことはありません。
本書には、「大人のADHDの診断基準」(ハロウェルらによる)が引用されていました。(『最新版 よくわかる大人のADHD(注意欠如/多動性障害)』p.101)
それによると、20項目あるうちの、「少なくとも15項目において、慢性的な障害をみる」ことが、基準になるそうです。
その20項目のなかで、私があてはまる、と思ったのは以下のものでした。
- 力が出しきれない、目標に到達していないと感じる(過去の成果にかかわらず)
- タイミングや場所や状況を考えず、頭に浮かんだことを、パッという傾向
- 常に強い刺激を追い求める
- 退屈さに耐えられない
- すぐ気が散り、集中力がない。読書や会話の最中に心がお留守になる。時として非常に集中できる
- しばしば創造的。直感的かつ知能が高い
(↑つま子注:知能が高い、というよりは前者の2つが当てはまる)
- 決められたやり方や「適切な」手順に従うのが苦手
- 短気で、ストレスや欲求不満に耐えられない
- 衝動性
- 必要もないのに、際限なく心配する傾向
- 不安感
- 気分が変わりやすい
- 気ぜわしい
- 耽溺の傾向
- 不正確な自己認識
これ、数えたら、15個ありました…!
15個。うーん、ボーダーっぽいなと思いました。グレーというか、やっぱり、軽くADHDなのかな、と思います。
やっぱりそうかな、と思ってからの気持ちの変化
今回、ちゃんと本を読んで、「やっぱりそうかな」と思ったことは、
自分の中で大きな変化をもたらしました。
それはたとえば、次のような文章を読んだときに、思いました。
ADHDの女性は、自信がなく、自尊心が低い人が多いようです。
忘れ物をする、片づけられず、身の回りをいつも散らかしっぱなしにしているという状況は、男性にも女性にもみられますが、女性のほうが女なのにと非難の目で見られやすいのです。
リアルな世界において、ADHDは、発達障害に分類される「疾患」という枠組みを超えた重要な役割を担っている。
どういうことかと言えば、困難な現実世界の局面において、沈滞した閉塞状況を打ち破るのは、ADHDの気質を備えた人たちであるからだ。
彼らは周囲の思惑を気にしないで、ためらわずに決断し突進を繰り返すのであるが、その過剰な試みは、失敗に終わることもある一方で、新しい活路を切り開く契機になる。
こうした文章を読んだときに、ふっと肩の力がおりたんです。
私、苦手なこともある中で、がんばってきたじゃないか。
と。
そういえば、1年半前のブログには、私はこんなことを書いていました。
なんてことはない。
元から私は優秀ではないのでした。
たとえていえば、この世界は犬のためにつくられた犬たちの世界で、私は、「犬だと思い込んでいた猫」だった気がします。
職場は、犬の中のエリートたち。
犬レベルが過ぎて、ちょっと狼さえ入っているような、犬・オブ・犬たちの活躍する場でした。
猫である私が、何かのめぐり合わせで、犬の世界でしばらくやっていっちゃったけど、本来は私がそこに紛れこんでいたのが変だったんだと思う。
出産前の退職に後悔はない。だけど「退職する前にやればよかったこと」はある。そして、専業主婦のその先へ行きたい私。 - 明日も暮らす。
もともと得意なわけじゃないのに、優秀な周りの人のなかでもがんばろうとしてきたこと。
私には、周りの人みたいに上手にできないことがある。
でも、周りの人よりも得意なことも、あったりする。
自分を認めようと思えました。
そして、周りの人に、たくさんカバーしてもらってきたんだなと思いました。
私の特性を理解して、付き合ってきてくれた友人たち、学校の先生たち。家族。
得意なことと不得意なことの差が激しい私なのに、とりあえず何とか学業を終わらせることができ、社会に出ることもできたということは、
私は周りの人に、上手に育ててもらったんだな…と思いました。
「ADHDな自分を、真正面から認める」ということができたおかげで、
自己理解の気持ち、そして他者への感謝が沸いてきました。
さらには、これからは、苦手なことは正直に「苦手」と思っていいんだ、とも気づきました。
たとえば仕事やPTAのことだったら、あらかじめ伝えることができる。
自分の限られた集中力はどんな場面なら発揮しやすいかなどを考えるのもできそう。
これから築く人間関係には、不安感にさいなまれる前にどうにかできるんじゃないかな、という気がします。
それに、「ADHDである自分」を軸にしたら、「こうしよう」という行動指針もできてきやすいような気がします。
まとめ:診断は受けないけど
まとめると、
ADHDであるっぽい自分を認めたら、自己理解や他者理解(感謝)、行動基準ができてきた
ということです。
本を読んでこれだけ気持ちが落ち着き、
「どうして自分がこうなっているのか」、そして「これからどうしたらいいか」、というところまで考えが進みました。
これは私にとっては、大きな成果に思えます。
この時点でとても満足しているので、この先すぐに、専門家にかかって診断を受けて…というところまで進もうとは思っていません。
今の時点では。
それにしても、「ADHDの母と、育児」という組み合わせは、
非常に困難を抱えやすいじゃないかな…と、私は自分の実例をもってして、思います。
この分野の本を読むと、すごく面白いし、これからの育児の参考になりそうなことが多いな、と気づきました。
私にとっては育児書よりもADHDについての解説書のほうがいいのかもしれません。
畢竟、育児というのは、
育児する人(親)とされる人(子ども)の「関係性」や、「そこでの行い」のことであるし、
子どもの行動を直接変えることは難しいので、
私は、何かを変えるなら、私自身についてを考えたいし、私自身を変えたい。
自分が自分の育児を考えるのに、「ADHD」というところを切り口とするのは、すごく実りがありそうだな、と思っています。
またこのテーマで、記事が書ければいいなと思います☆
今日もいい一日になりますように!