こんにちは。
梅つま子です。
長々と書いている、年末の胃カメラ体験。
今回が一応の終わりです。
タイトルのとおり、今回の記事には「死」についての考えを書いています。
自分の記録としても書いておきたいことなので、
自分の正直な気持ちを尊重しています。ご理解ください。
死生観については誰のものでもなく、自分のものであると信じているので、
この記事に関してのコメントやアドバイスはお受けしないことをお断りしておきます。
ことの始まりは、人間ドッグ。
苦しい思いをしてバリウムを飲んだら、それで終わりじゃなかった!
内視鏡推奨の、要精密検査の結果になりました。
鎮静剤を使うつもりで、人間ドッグを受けた病院に行ったら、
「鎮静剤は使いません」といわれてしまい、頭が真っ白。
お金もある程度払ってしまった後だったので、悩んだのですが、
鎮静剤を使ってくれるクリニックに予約を取り直しました。
クリスマスの日、いざ、検査へ。
「鎮静剤を使えば寝ている間に終わる」と思い込んでいたのですが、
実際は…記憶に残るものでした。
今日の記事は、この後の話です。
胃カメラを乗り越えたら、「ピロリ菌の薬をもらって、おしまい」
と思っていたんです。
なのに、胃の中にただれがあり、「組織を調べます」とのことでした。
最初は、「あ、そうですか」程度だったのですが、
後から、どんどん不安になってきました。
組織を調べるって、何でだろうって考えたら、
がんかもしれないからだ…。
ということに気づいたからです。
立ち寄った本屋でも、スマホでも、つい「ピロリ菌」「胃がん」ばかり検索してしまう。
胃がん家系ではないし、がんだったとしてもそこまで進行していることはないはず。
人間ドッグで血液検査を受けた結果、腫瘍マーカーでは何もなかったし。
…と思いはしても、
「がんかもしれない」
という思いは消えることなく、毎夜毎夜、残りました。
今の私の年齢(41歳)より若くしてがんになり、
この世を去った知り合いも、数名います。
がんかもしれない、という思いは、すぐに、
「死ぬのかもしれない」に変わりました。短絡的ですが。
祖母も父も他界しています。
身内の死の経験から、自分がいつか死ぬことは受け入れているつもりですが、
新しい年が始まれば、その年を当然、生きたままで、元気で健康で、終えるつもりでいるんです。
事故だって何だって十分ありえることなのに、死ぬ可能性については考えもしない。
それが、たった一つの「がんかもしれない」という考えだけで、
「私は、おばあちゃんと呼ばれる年齢に達しないで死ぬのかもしれないのか」
と思うに至ったのです。
結局私は、今の今まで、死を自分ごととして捉えていなかったんだと思います。
かつて親友と、「死」について話したことがありました。
彼女は、家族に障害を持つ人がいることで、ずっと身近に死を感じてきた人です。
彼女は、
「死ぬということは、自分が今抱えている悩みはなくなるということで、それはいいなあと思う」
と言っていました。
それを聞いて私は、「そんな!何ということを!」と思ったし、私は彼女にそう言ったと思います。
でも41年生きてみて、「消えないだろう悩み」や、「望むとおりにならなかった人生」というのが、
この私にすらあるんです。
詳細については書きませんが、
この、十分幸せに見えるかもしれない私にさえ、
毎日のほほんと暮らしているような、
お気楽夢見がち野郎に見えそうな私にさえ、あるんです。
それを思うとき、「そうか、悩みは私とともに消えるか」と思ったら、
それに関しては、少しだけ、ホッとする思いがありました。
こんなことを私が考えるなんて。
41歳だけど、それなりに私も長く生きたんだなあと思って、泣きました。
過去の自分に話したらびっくりすると思います。
なぜなら過去の私はいっぺんの疑いもなく、
自分が、自分の力で獲得した幸せのなかにいる、と思っていて、
ものすごく生に執着していたので。
それから、夫は大変だろうなと思いました。
小さい子2人抱えて、夫はどうするんだろう?
子どもたちの面倒の実質は誰が見るんだろう?私はどうしてほしいんだろう?
ということも少し考えました。
夫は今の住まいに住み始めるに当たって、
「この家に一番長く住むのは君だから」と言ったことがあります。
男性の寿命が女性のそれより短いことなどから、
つまり彼は私より先に死を迎える目算があるんでしょう。
「先に去る」という考えについて、今までまったく考えたことがなかった。
夫に先立たれる、ということすらも、考えていなかったけど。
組織の検査の結果が出るまで、20日ほど。
長い長い、20日でした。
ところで、この20日、ずっと見ていたのは、
ビッグバンセオリーでした。
アメリカのコメディで、大学に勤める科学者(オタク)たちの友情と恋愛から目が離せなくなりました。
夜になると布団の中にタブレットを持ち込み、
寝落ちするまで、何話も何話も、ずっと見ていました。
おかげで、10シーズン、200話を越えるストーリーを全部見ることができました。
ストーリーは面白いわ、役者はみんな上手だわ、声はいいわ、英語の勉強にもなるわ…。
何なら日中も、辞書と首っ引きで、時間があればずっと見てました。
「今、ここ」からとにかく気をそらせたくて、必死でした。
この20日間、ビッグバンセオリーにはものすごく助けられました…!!
アメリカのドラマと言えば、私にとっては、ずっとgleeが君臨していたのです。
育休中の苦しい思いを爽快に吹っ飛ばしてくれたglee。
でも今回、gleeに匹敵する、愛すべき作品に出会えて…!本当によかったです。
ビッグバンセオリーについてはまた機会があれば記事を書きたいと思います。
ビッグバンセオリーは、
アマゾンプライムビデオで、シーズン10までほとんどの話を無料で見られるので、
会員の方はぜひ!
で、話を戻して、胃カメラの結果の日のことです。
宣告を受ける気分で、クリニックに行き、
自分の番を待ちました。
その間に、先に診察を受けた若い男性が、看護師さんに、
「紹介状ができるまでしばらくかかるので、1時間くらい経ったら戻ってきてもらえますか?」
と言われているのを見ました。
そうか、紹介状。
処置が必要な結果が出たら、より専門的な治療を受けられる病院に行くし、入院の必要もあるかもしれないのか。
そして、 自分の番になりました。
診察室に呼ばれ、先生から聞いたのは、
「特に悪性のものではないですね」
という一言でした。
なんでもないことのために、20日間、死をめぐって悶々としたのかと思うと、
なんともナイーブでアホらしいかもしれない話ですが、
この20日間自分の心がたどった道筋は、
これからの自分に、とても必要なものだったと考えています。
とりあえず大きな安心と、支えてくれたビッグバンセオリーへの感謝をこめて、
この記事は終わりたいと思います。
たぶんあと1回くらい、胃カメラと死生観をめぐる話を書いて、
この一連の出来事についての記事は終わりです。
今日もいい一日になりますように!