おはようございます。
梅つま子です。
オリンピックが終わりました。
エ…やるの…?と思っていたところからの、あれよあれよと開幕、
開幕してしまえば毎日のメダルニュースで、圧倒されているうちに会期が終わり、
次はパラリンピックがある、という状況になっています。
この記事では正直な気持ちを書きますが、
オリンピックに賛成反対、
どういう立場、態度の人のことも傷つける意図はありません。
「こういう考えの人もいるのか」程度で読んでくださるとありがたいです。
なるべく私も気をつけて書きますが、
私自身が、出来事を意味づけて前に進みたいと願い、
私個人の思いを言葉にすることを選んでいますので、
「ちょっとオリンピック関連のあれこれを読みたくない」とお考えの方は、
読むのを避けていただけますと幸いです。
というわけで書きます。
コロナ感染の事態が深刻になっていくなか、
オリンピックは中止になるのかなと思っていたので、
え、おお、や、やるのか…という気持ちでいました。
自分自身、ワクチンの1回目すら予約のめども立たない状況で、
(ワクチンの供給の少ない自治体に住んでしまっているらしい)
自分自身が強くこうしたい、と思う方向に、
どうも事態が進んでいかないようであるとき、
反発したり、絶望したり、悩ましく思いました。
こういうことはかつて所属していた職場などでも経験があることで、
あまりに私の考えと職場の取る方向性が乖離している場合、
「これは私はもう、ここでは働いていけないな」と思ったことがあるし、
実際に退職するときの思いに、こういう気持ちが混じっていた経験もあります。
退職すら、個人にとっては難しい選択ですが、
日本に住み続けるのをやめる選択、というのは、ほぼないに等しいです。
ここで以上に、私はよりよく自分を、そして自分の子どもを守れないことは、
よくわかっているのです。
そういう思いでいたので、
積極的にオリンピックを見る気持ちがわかないままに、
8月になりました。
ところで、私は空手を習っているのですが、
先生から、「空手は5、6、7日です。応援しましょう」と、
道場のLINEで流れてきました。
これは私にとってはとてもありがたかったです。
先生の声のおかげで、「とりあえず空手は見よう」と思えたのです。
ところで、私は空手が好きで習い始めたわけじゃなくて、
本当に偶然のご縁なんです。
武道を習ってみたかったからとか、近所でやってるからとか、体を動かしたかったからetc.な理由で始めています。
もしそこでやっていたのがテコンドーだったらテコンドーをやっていたんだろうと思います。
空手じゃなければだめ、という理由がなかった。
空手についての前知識もありませんでした。
なので、世界選りすぐりの選手たちの戦いぶりを見て、
私の習っている空手は、そうかこういうものなのか、
というのを、今更ながらに知りました。
「好きな空手の選手は?」と聞かれても、知らないから答えすらできなかった自分が、
オリンピックを通じて、選手を知ることができたのも大きなことでした。
オリンピックを通じて間接的に空手の美しさを改めて知りました。
美しいことは知っていたけれど、神々しかったです。
瞬発力といい、動じなさといい…。
私のもっていないものばかりです。
「ああ、こんなに自分に向いていなそうなものなのに、何で私は空手を習えているんだろう!」
との思いに、目がくらみそうになりました。
ひとえに、「やってみたいです」と言い出した私を道場に迎えてくれて、練習させてくれている先生と、練習仲間たち(多くは小学生)のおかげです。
特に、形の美しさよ。
空手の形って美しいです。
緊迫した空間に、ただ一人だけが形を打っているのって、実はあまり見ないんです。
練習では全員一斉にやるし、試合ですら、コート(?)が6つくらいあって、淡々と、どんどん進められていくので、
中央にあるたった一つの空間で、ひとりずつ形を打つのは、
神聖な、舞の奉納のような感覚を覚えました。
人間の体がここまで力強くて確かな動きを作り出せるとは…。
龍を召喚するか鎮めるかみたいな、
空手の形って、極めるとそんな完成度になるんだなあと…、
自分のやっていることに対して、
「私は、こんな恐れ多いものの末端に触れさせていただいていたのだったか」
と思いを新たにしたのです。
選手たちがどれだけの努力を重ねてきたのか、想像することもできないし、
私の空手と比べることすらおこがましいんですが、
「空手に触れさせてもらっている以上は、取るべき態度がある」
と思わされました。
戦う姿勢というものがあるんだと。
私はやりたいと思って、その思いが通じて、ありがたくも参加させてもらえているんだから、
私は、下手なりに努力の成果と、上達の軌道を描いてみせようと。
それが礼儀だと。
ベストを尽くす、と言ってはシンプルすぎて身もフタもないんですが、
「戦う前から逃げているようなもろもろ」に関しては、
態度を改めないとならんと思いました。
そしてそれは特に、私の得意なほうの分野に関してはそうで、
私は比較的、英語に関してはまあまあやれているほうなので(数学とか物理とかに比べたらですよ…)、
「言い訳せずにちゃんとやれ」と思いました。自分に対して。
興味や関心があり、
それなりに環境が整っていて、
ゼロセンスというわけでもなさそうなんだったら、
ちゃんと取り組めよ自分と、思ったのです。
それなりにちゃんと英語をやっているつもりではあるけれど、
読解は苦手だからといって逃げまくっているので、
そういう自分の態度は改めようと思います。
そういうのはかっこ悪いなとシンプルに思えたのは、オリンピックの空手のおかげです。
以上が、私がオリンピックで感じたことです。
空手以外にも、たくさんのメダルを日本の選手たちが獲得し、
メダルを獲得したか否かにかかわらず、ひとつひとつに物語があることを理解しました。
ただ、その物語に、私は十分に思いを寄せることができずに、
自分自身の今の状況では、空手だけで十分、今の私が学ぶべきことを学ばせてもらえたなあと、そんなふうに思っています。
そして正直なところ、
国別にわかれ、金銀銅と順位をつけることへの肌なじみは、
紅白歌合戦で、紅白にわかれることに疑いを持たず熱狂しづらくなってきたこととちょっと似ています。
なんだろう私は…、
夏のある日、朝方にたまたまテレビをつけてみたら、
大きな時差を隔てた地球のどこかでオリンピックがLIVEでやっていて、
「へえ、おお」と思いながら、選手たちの活躍を知る…、
くらいの時間的、物理的、精神的距離感がちょうどいいのかもしれません。
今回のオリンピックでは、私が私の理解できる最大のメッセージを受け取ることができた、というところです。
あとは、いろんな事態がちゃんと、収まるべきところに収まることを、心から祈ります。
この記事を結ぶ、いいことばが浮かびませんが、
私たち一人ひとりが、心も体も健康であることができるよう、祈るばかりです。
今日もいい一日になりますように!