おはようございます。
梅つま子です。
英語のリスニング力を伸ばすために、
ちょっと骨太の研究書を手にとりました。
言葉を愛する者の端くれとして思う、この本に出会えて良かった。
なんじゃこれ!ホントにリスニングの本なの?と思うくらい面白い本でした。
著者は阿部公彦さんという英文学者です。
阿部 公彦 東京大学出版会 2020年10月13日頃 売り上げランキング :
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英語のリスニングおよびスピーキングが難しいわけ
英語って難しいですよね。
難しいじゃないですか。
私もつねづね、難しいなと思っているんですよ…。
「何で難しいか」への答えはいろいろあると思うけど、
阿部さんのこの本における答え方は、こうでした。
(太字強調は梅つま子によるものです。以下同様)
英語にも日本語にも中国語にも、独自のリズムや間合いがある。
だから、新しい言語を習得することは、 新しい時間の流れ方を学ぶということを意味します。
ひー!
「新しい時間の流れ方!」
言語を学ぶことを、そんなふうに捉えたことなかった。
でも、
「私、英語学んでます。英語という新しい時間の流れ方を学んでるんです」というと相当ドン引かれるでしょうが、めちゃめちゃ刺激されます。
なんというか、私のなかの中2心が刺激されます。好き!
何でわかるのか、よくわからないときがある
言葉はほんとうに奥深い。
「なぜ自分は言葉を使えるのだろう?」と思わず自問してしまうような不思議な瞬間がある。
それは自分の力ではどうにもならないと思えるようなことを、なぜか自分で出来てしまう瞬間なのです。
これもなんかわかる。
英語を、「外国語を理解する」ということ自体がゲシュタルト崩壊するときがあって、
自分のことなのに、「またまた…笑」って思うんですよ、
英語を聞きながら、「理解できているなんてうそみたい」と思う、それなのに、
気がつけば相手が何を言っているのかわかるし、
おまけに英語で返事していたりする。
そういうことのひとつひとつが、
「あああ?(言語化不可)何が起こってるの」
って時があるんですよね、私のようなまだまだつたないレベルの者でさえ。
バイリンガルではないから余計に、
「私が英語理解できるなんて嘘みたいだ。でもなぜか今コミュニケートできている」という事態が、すごく新鮮に感じる。
不思議だし、快感だし、なんかでも信じられないようなフワフワした気持ちです。
英語学習者ハイとでも言いたいような。
言語の心地よさ
阿部さんの議論は「言語の心地よさ」に移っていきます。
このあたりが、この著書の出色というか、私がゾワゾワしたところです。
言葉の運用で「心地よさ」が重要なのは、 それが以下のような要素と結びつくからです。
(1)わかりやすい。内容が頭に入りやすい。
(2)ストレスがない。親密で拒絶反応を引き起こしにくい。
(3)話し手について好印象を与える。その知性や社会的地位、人格的な円満さを示唆する。
(4)聞いている方が、生理的な快感を得る。よい気分になる。
(『理想のリスニング: 「人間的モヤモヤ」を聞きとる英語の世界』20ページ )
英語学習者である私は、この人のしゃべり方好き、という好みがありまして。
女優のマイアム・ビアリクはもう殿堂入りです。
低めで張りのある声が大好き。
彼女の愛情深さと賢さを示してると思う!
あとマンディ・ムーアはシンガーだから当然、歌も上手だけど、
しゃべり方がきれいだと思う。
心地よく上下して、なんというか完全な球形を想像させるんですよね。
マンディ・ムーアの話し方を聞いていると、自然に気分が華やいじゃう。
彼女たちの英語を聞いていると、
話されている内容がわかるかどうかということを超えて、
もう気持ちいいからずっと聞いてたい、浸らせてハアア、ってなるんですよ。
そしたらこの本はこう続いてきまして。
言語によるコミュニケーションが 、一種の愛撫の役割を果たしているということ。
(『理想のリスニング: 「人間的モヤモヤ」を聞きとる英語の世界』23ページ )
あっっ、なんか、ギャア!
執拗に私が、私の生活のなかに英語学習を求めている理由が、
なんかここでバサアッと、カバーされていた幕を思いっきり外されてしまったようで、ものすごく恥ずかしい!ワアア!
恥ずかしいけど、続きます。
もともとが愛撫の装置であったものを情報のやり取りに転用しているので、しばしば情緒的だったり感覚的だったりする部分が顔をのぞかせる。
それがむしろ宿命だと言ってもいいでしょう。
(『理想のリスニング: 「人間的モヤモヤ」を聞きとる英語の世界』26ページ )
おおう…愛撫の装置だったものを情報のやり取りに転用したものを、
外国語で習っているということなのか…。
つまり、愛撫のされ方と仕方を習っているのですね。
実際にそれをされながら、しながら。
どうですかこれ。まさかリスニングの話が、こんなところまで来ようとは。
この本、もはや素面で読めないよ。
はあ、英語のリスニングをそんなふうに捉えたことなかった。
でも確かに、マイアム・ビアリクやマンディ・ムーアの英語に、私は確かに気持ちよくなってるんですよ!!
そしたらやっぱり、
自分の口から出る英語も、愛撫の装置の原型を留めているだろうか
ってことも、とても気になってきました、にわかに…!
(そしてそれってどうやって分かるのかな?録音して聞いたら自分にも分かるものなのかしら…!!恥ずかしい!!けどなんだかそこに行きたい!!!)
で、さらにですね、
リスニングの本であることをとっくに超えて、
「人間とは」に入っていくこの箇所には高まりを感じました…!!
過剰に欲望してしまう
個人差があるとはいえ、私たち人間はしなくてもいいことをするように作られています。
その最たる例が「欲望」。
私たちは必要以上のものを食べ、必要以上に眠り、 必要以上に買い物をし、時には必要以上に異性や同性に興味を持つ。
そもそも生きるということ自体が、 過剰さにまみれているのかもしれません。
放っておいてもあふれ出してしまうようにして、自分の意思に関係なく、まずは生きてしまうのが人間。
(中略)
私たちの言葉との付き合い方は、この宿命的な過剰さをぬきにしては語れないのです。
私たちはどうしても過剰に愛してしまう。
過剰に欲望してしまう。
そして、そうした過剰さを反映するようにして、過剰に言葉を使ってしまう。
だから、ちょうど他者の過剰な愛や欲望に敏感にならざるを得ないのと同じように、過剰な言葉にも対応せざるを得ない。
しかし、そんなとき警戒したり、反発したり、 嫌だと思うこともあるけれど、逆に過剰さに心地よさを感じたり、ほっとしたり、ときには涙が出るような思いになることもある。
それが人間の文化というものです。
(『理想のリスニング: 「人間的モヤモヤ」を聞きとる英語の世界』29ページ )
確かに詩とか朗読、スピーチって時に過剰で、その過剰さが感情の渦を生んで、そこに巻き込まれるのが気持ちよいです。
偶然なんですけど、こんなyoutubeを発見しました。
これ…すごくて。
musicを「mみぅうーずぃっく」
painは「っっppぺいいんn」 って言ってます、
どんだけpで唾飛ばした?ってくらい。
聞いてると唾が見える気さえしてくるくらいです。
これがまた、そして、すごいクセになるんですよーーー!!
(何度も聞いちゃった)
映像も巧みだし、
これは聞いて気持ちよくなることを目的としたコンテンツなんだな、と理解した次第です。
これくらい、「っっppぺいいんn」
ってやって過剰さを出してもいいんだな。言語が、愛撫の装置であるからには!!
耳の優位
西洋の書き言葉のレトリックを見ても、その下敷きとして古来の雄弁術の伝統があるのが見て取れます。
目に対しての「耳の優位」が文化の様々な層に刻み込まれているのです 。
耳の優位。
つまり、聞いて理解されることを重視する言語であるならば、
話すときも当然そこを前提にするし、気持ちよく聞かれるものであるものとしてアウトプットされるはず。
それに対して日本語はどうか。阿部さんの考えはこうです。
日本では、フォーマルな話し言葉のやり取りをベースにして社会的な制度を動かすという伝統があまりありませんでした。
そのため、フォーマルな制度性を持った話し言葉が育たない。
(『理想のリスニング: 「人間的モヤモヤ」を聞きとる英語の世界』73ページ )
確かに日本語には、ディベートなどの文化とかが歴史的にあったわけじゃないし、
しっくりはまらないのは、「フォーマルな制度性を持った話し言葉」じゃないからなのか。
日本語と英語の違い
日本語には特有の話し言葉の作法があります。
例えば日本語のオーラル・コミュニケーションでは、待遇表現(politeness)が英語などの西洋語とはかなり違う形で言語の運用に関わります。
メッセージをきちんと伝達するだけではなく、話者同士がどんなふうに関わりあっているかにも気を配りながら、常に両者の関係を良好に保とうとする。
この関係性の構築にはかなりのエネルギーが向けられます。
こうしたやり取りの特徴として興味深いのは、話す側の一貫性や構築性を犠牲にしてでも、聞く側の同意を得ようとすることです。
ためしに、自分の日本語での会話を録音してみてください。
そしてそれを書き出してみる。
話しているときは全く普通だったのに、書いてみるとおそろしく支離滅裂でびっくりするはずです。
「あの」とか「ほら」といった間投詞がやたら多い。
構文も脱線だらけ。
話が逸れたうえに最後までもっとに戻らず、尻切れトンボのことも多い。
ああでもないこうでもないと文節の継ぎ接ぎが続いたりもする。
なぜこんなことになるのか。
話してる側は割り込みを歓迎し、相手にわざと参加させるようとするかのようです。
聞き手の反応に合わせて脱線することもよくある。
その結果、ぶつ切りのしゃべり方になり、首尾一貫した主張を展開するという形からは程遠い。
実際、日本語では下手に立て板に水でよどみなく話すと「変な人」という烙印を押される可能性さえあります。
(『理想のリスニング: 「人間的モヤモヤ」を聞きとる英語の世界』75から76ページ )
このことをひとことで著者は、
「協働的に発話を完結させようとする」(p.76)とまとめています。なるほど。
例えば、日本語の会話では、
「うんそれで、そう確かにそこがちょっと、だと思うんだよね」
とか、
「で、だからやっぱり、それでそうだったのかなあ」
みたいな意味不明で、今、とくに何も内容のないこと言ってるよね?というものがいっぱい入っていればいるほど、
日本語としてはなんだか自然さや親しみが増すという、なんかおかしなことになってるんですよね。
これをマスターできる日本語非母語話者はなかなかいないだろうと思うし、これをテクニックとしてどう教えたらいいのか。
日本語教師が途方にくれるところだろう(し、教える必要もないのかも)。
こうしたやり取りでは、緊張感のある対決的な議論をするのは難しくなる。
んだそうです。
確かに緊張感ない。
ノーガードどころか、相手に「ここ打ってくれ」って言いながら、防御がら空きで空手の試合してるようなもんだもんな。
それに引き換え、英語はそこはきっちりしています。
きちんとセンテンスを完了させるのが英語では最低限のルールです。
だから英語話者はふつうはこちらが文を言い終わるまでじっと待っていて、途中で相槌を打ったり、割り込んできたりはしない。
別の言い方をすると、話者にはきちんと自分の文を構築し、自分の言いたいことに形を与える責任がある。
聞き手にも、相手が差し出す言葉をしっかり聞き取ることが要求される。
日本語に比べると、話し手も聞き手も、相手の助けをあまりあてにはしないのです 。
(『理想のリスニング: 「人間的モヤモヤ」を聞きとる英語の世界』76から77ページ)
あーっ。
だから私が何か英語でグダグダ話していて、
何か付け足そうか、これでもういいかな~と思って、
あーとかうーとか言ったり思ったりしているとき、
たまに「That's it?(言い終わってる?)」と聞かれるのよね、と思ったのでした。
こういうルールを了解せずして、ただ文法や発音だけやってても、英語話者らしく話すのは難しい。
普段日本語では、相手にカットインしてもらう前提で話している人が、
いきなり、自分の文を最初から最後まで作ったうえで出すのは、
ストレッチしているのと筋トレしているのくらい(?)違う。
もしかしたら、
まず日本語でよどみなく話す(日本語にしてみればちょっと不自然な話し方)モードを身に着けてから、英語を勉強するのもいいのかもしれない、と思ったのでした。
例えれば、
英語っていうのは、しっかりした直方体を、どんどん高く高く、上へ上へと重ねていく積み木みたいだけど、
日本語の方は、細い棒を二人で互いに支えあわせるようにしながら、時には横に棒を増やしながら、なんとか足場を固めていくゲームをやっているような。
そんな感じだと思いました。
というわけでこの本は、
私に、英語を学ぶことは違う時間の流れ方に身を置くであることを教え、
聞くこと、話すことは愛撫術であることを教えてくれました。
まさか、「愛撫」とか、「過剰に欲望」とか、そんな言葉がリスニングの研究書読んでて出てくると思いませんから。
深い。重い。楽しい。やばいぞ。
そういうものを学んでいる私、と思うと、
もともと好きだった英語学習だけど、さらに面白いことになってきました。
ニヤニヤしてしまう。笑
そうならそうと覚悟を決めて、もうその世界へとズブズブ入っていって、
気持ちよく楽しんでしまえと思います。
英語観が変わりました。明日からの英語学習がさらにもっと楽しくなりそうです!
今日もいい一日になりますように!
阿部 公彦 東京大学出版会 2020年10月13日頃 売り上げランキング :
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