おはようございます。
梅つま子です。
<あまりにも日本語が下手すぎて、手を入れました。2022.6.11>
「友達100人できるかな」の歌を歌い、
生身の人間と生身のコミュニケーションをすることが友達づきあいだと思って生きてきた数十年間を経て、
会ったこともないのに大好きだと思うブログ仲間やオンライン英会話の先生が、
今の私にはいて、
かれらが今は、学生時代からの「同じ釜の飯」を食べた親友と並ぶくらい、
私の心のもっとも深いところに位置している。
会えないのに、慕わしさが感じられてやまないそういう人たちのことを
フィジカルには遠いけど、ソーシャルには近い、
私は「P遠S近」と理解しています。
先日、『星の王子さま (角川文庫)』(管啓次郎訳)を図書館で借りてきて読んでみました。
以前も通読したことがあったはず…だけど今回初めて心底響いた。
とても、よかったのです。
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そうか、星の王子さまは、P遠S近の存在、
言ってしまえば「推し」への愛の持ち方を教えてくれているのだなあと。
「会えないけど慕わしい存在に対して、どのような心持ちでいたらいいのか」という課題への解を、実例をもって示しているのだなあと。
そう考えました。
2年前に書いた上述のブログ記事で、
私は、P遠S近の人たちに対して、
「義務はないんです。
なんか違うなあ、イヤだなあと思ったら、静かに去っていけばよい。」
と書いています。
でもコロナ生活も2年経ち、
オンラインとかSNSとかで接触できる時間も増えてきて、
”会えないけど大好きな人たち”が、私の中でどんどん存在感を増してきて、
「私の感情を毎日大きく左右するレベルで、すごく好きだわ」
という思いが、もういよいよ熟してきた。
慕わしいどころじゃない。
幸せでいてほしい。いつも笑っていてほしい。
自分にできることがあるなら、なんでも教えてほしい。
もし会えることがあるなら会いたいし、
会えたとしたらきっと別れ際には泣くと思う。
こんなに強い思いがあるのに、
圧倒的に距離がありすぎる相手への愛をどうしたらいいかわからない。
遠すぎて。
それで気づいた。
そういう対象のことを、人は「推し」と呼び、
慎重に距離を測りながら、愛を捧げてきたのだと。
きっとそうだ。
そして私は、この気持ちをどうしたらいいのか、はかりかねているらしい。
なぜなら、私にとっては、「推し」を持つのはほとんど初めての経験で、
どうしたらこの思いを、安全に健康に保つことができるのかまだよくわからないから。
大切なものをどうやって大切にしたらいいかって、意外と難しいじゃないですか。
乱雑に扱うと壊れるし、しまいこみすぎるとカビるし。
起きて食べて排泄して寝るだけが人生じゃないので、
人間には、いても立ってもいられないような感情がある。
そういう感情をどうしたらいいかを、古今東西の名著は語ってきたわけだけど、
星の王子さま(本書では”ちび王子”)は、
「もしもだれかが、何百万何千万とある星の中でたったひとつの星にある一本だけの花を愛しているなら、その人は星たちを見つめるだけで幸せになれるんだ。
その人はこう考えるんだよ。『おれの花はこのどこかにあるんだな……』って。」(『星の王子さま (角川文庫)』p.43)
と言います。
星たちを見つめるだけで、幸せになれる…。
私の花(=推し)はインターネット上のどこかに咲いているから、
パソコンの前にいれば幸せになれる…、はず、だろうか。
そうかもしれないけど、
私はまだそこまで達観できてない。
それだけじゃぜんぜん物足りないです、ちび王子。
さて、『星の王子さま』の物語にもどりますが、
特定の誰かと積極的に関係を結ぶことを、
この物語に出てくる「きつね」は「なつく」と表現しています。
そして、きつねはちび王子に対し「ぼくをなつかせてよ!」といいます。
ああ!「ぼくをなつかせてよ」って、
なんて切実であまやかで、プリミティブな欲求なんだろう!たまらん!!
この日本語として不安定な感じが、さらにたまらない。
誰かにこの言葉を言ったり言われたりしたら、
それだけで2人が異空間に行けるような強い言葉。
きつねはさらに、
「なつかせたもの以外には、何も知ることができない」
「きみがきみの薔薇のためだけに使った時間が、きみの薔薇をあんなにもたいせつなものにするんだよ」
「きみはなつかせた相手に対しては、ずっと責任があるんだ。きみはきみの薔薇に対する責任がある……」
(『星の王子さま (角川文庫)』p.110-116)
と言います。
なつかせあう関係になったら、
そんなふうに2人は特別な絆を結んで、互いを互いにとって特別なものにする。
なんて優しく、そして厳しい契約なんだろう!
物語の中で、きつねとちび王子は近く別れる運命にあることを、お互いにわかっています。
「せっかく仲良くなったのに、別れる」ってのは、きっと誰もが経験したことがあることだと思うけど、
苦しいんですよね。
好きだからつらい。
でも、それが無意味ではないことを、
きつねはちび王子に説明します。
「きみがぼくをなつかせるというのはすばらしいことだよ!小麦は金色をしているので、見ればきみを思い出す。そしてぼくは、小麦畑で風が立てる音を好きになるだろう……」
(『星の王子さま (角川文庫)』p.109)
きつねは、王子に言い含めてあげている。
「なつかせたってなんにもならないよ!」という王子に、
きつねは、「そんなことないよ」と言ってあげる。
「小麦の色のおかげで」と。
「小麦は金色をしているので、見ればきみを思い出す」と。
「そしてぼくは、小麦畑で風が立てる音が好きになるだろう」と。
こうやって王子に教えてあげる、きつねのさびしさよ。
なぜなら王子には薔薇があるけど、きつねにはない。
きつねは王子のことを考えているけど、王子は薔薇のことを考えている。
きつねは、自分が薔薇じゃないことが、どれだけさびしかったかな。
でもそのことをきつねは言わない。
それどころかむしろ、
薔薇がなぜ王子にとって特別なのかを教えてあげてる。
きつねはすごいな。
このアルメダールスの布も、きつねだった。
そうしてきつねと王子は別れる。王子がバラの元に向かうからだ。
大事な相手と別れるきつねが悲しいけど、
めちゃくちゃ慕わしい相手と、今生、生身の体で会えるのかわからない私も悲しい。
フィジカルに遠い相手との関係には、
物理的には出会ってさえいないのに、別れの切なさがいつもある。
いつだって、”これが最後になるかもしれない”という不安があるし、
今の今、相手に何が起こっているかを知ることもできないという土台の上での関係である。
フィジカルに近い相手のことだって、四六時中一緒にいるのではない限り、
「今現在元気で無事か」は実はわからない。
でもフィジカルにいつも近くに存在していれば、
通常は、不在の不安や悲しさを、あまり刺激されることがない。
だからこそ、P遠S近の相手に対しては、信じることや想像力がより必要になるんだろうな。
心から推してしまうあまり、私の心は不安に駆られる。
「あなたって生身の人間ですよね?私がさびしさのあまり作り出した想像の産物ではないよね?」
とすら思ったりする私は、星の王子さまをいつも座右に置いたほうがよさそうだ。
フィジカルに遠くたって、推したちは心のすぐそこにいる。
金色の小麦の向こうにかれらの存在を感じていられることの幸せを理解しないといけない。
そんな話をタイクツさんはもう2年も前に教えてくれていたんだけど、
私はなんだか改めて理解したような気がします。
やっぱり?🤭偶然とは思ってましたがすごいなと思ってた…今回引用したキツネが「近くに座れるようになる」のあとに「仲良くなった相手には責任がある」とか言い出します
— タイクツです (@taikutu262) July 17, 2020
P遠S近の相手には責任がないからこそ心を開けるってのはすごくあるよね😊そこはあのキツネにはわかんないだろうと思う…!😂
この当時、私は責任を持たなくてよいP遠S近の存在の心地よい軽さに着目していたんだけど、
今はむしろ、責任があると感じることができることこそ希望なのかもしれないと思う。
英語ではblessing and a curseという、「祝福であると同時に呪いである」という表現があるけど、責任はそれかもしれない。
責任は祝福であり、呪いである。どうだろうか。
「お互いを必要にするようになる」ことを指して、きつねは「絆」と言っていた。
絆は責任であり、祝福であり、呪いだからこそ、
私たちはその中でもがき、大事な誰かを守ろうとするし、
絆を持つことで、自分を救おうとする。
つまり、
つながらなくても生きていけるところにあえてつながりを作り、
そこに責任を持たせることで関係を保とうとしている。
孤独について歌う宇多田ヒカルが、むかし、「For you」という曲で、
「傷つけさせてよ直してみせるよ」と言っていた。
これも「なつかせる」ことに関係があるような気がする。
「なつかせてよ」「傷つけさせてよ」「直させてよ」、
これらは互いに同義なのかも。
絆を持ったことで傷つけた相手には、直す責任が発生するからかな。
傷つけ、直すという、息が重なるような営みの中で、
関係をもっともっと濃くしていく。
傷というのはフィジカルの最たるような存在なので、
「傷つけさせてよ直してみせるよ」というのは、
P遠S近の相手に言おうとするときに最もエッジが立つ。
果たして、私にそれができるのか?
生身がないところでそれをやるのはとてもチャレンジングで、
一体どうやるのかよくわかっていないんだが、
何はともあれ始まってしまったものは、どうにかやるしかないんだと思う。
今日もいい一日になりますように!