明日も暮らす。

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シンプルで暮らしやすい生活を目指しています。オンライン英会話(英検1級)と空手(黒帯)が趣味。大学院博士課程修了(人文科学)。2児の母。

友人に薦められて、河合隼雄『中年危機』を読み、中年の深淵を感じました。

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おはようございます。

梅つま子です。

 

高校の同級生(理系)が、「この本、よかったよ」と薦めてくれました。

 

河合隼雄 朝日新聞出版 2020年09月07日頃
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彼女は高校1、2年のときのクラスメイトで、

出席番号の関係で、隣の席でした。

あの時15歳だった新入生の私たちが、

『中年危機』を読む年齢になっているとは…。

 

それにしてもタイトルが…中年危機!

「ミドルエイジクライシス」でも、ウワア…と思うのに、

漢字で4文字、中・年・危・機!

ドヒャア…。

 

ともあれ、同級生が、しかも理系の彼女が薦めてくれる本ってどんなのよ。と思ったので、図書館で借りて読んでみました。

 

そしたら。

「中年」ってそういえばそういう時期なんだ…と理解を深めることができました。

(強調は梅つま子によるものです。)

 

三十にして「立つ」とは、自立したいうことか。

だが、四十にして惑わずとわざわざ言ったのは、自立して以後、四十までは惑っていたということだ。

自立して以後、何に惑っていたのだろう。

ともかく、四十にして惑わなくなったのはいいとして、五十にして「天命を知る」ということは、それまでは天命を知らなかったということだ。

惑わないと言いつつも、自分にとっての「天命」を知らずにいたわけである。

それで本当に「惑わず」などいられたのだろうか。

(『中年危機 (朝日文庫)』p.32)

 

孔子の有名な言葉の引用ですが、

うっ…確かに!

惑いがあるままの自立ってなんだろう。

そして、天命を知らないままで惑わないでいられるのか。

40になった私はむしろ「わ、これからが本当の惑いの始まり…」って感じです。

それか、「惑わない状況になるのは不可能だとあきらめるのが40」ってことならわかるのだが。

有名な論語の言葉を「中年」の視点で見てみると、

今抱えているか課題の深さと重さを思い知らされます。

 

人間は支配者に対してのみ、「助けてくれえ!」と言わざるをえないときがある。

彼はちゃんと助けてもらえるが、それは支配の強化を意味しているのである。

(『中年危機 (朝日文庫)』p.91)

 

深い。怖い。

自分の「助けて」という声を聞き届けてくれる相手が、支配者。

助けてもらえるけど、支配が強化されるだけ。

…中年の深淵って深すぎないですか。

 

でもこういうことが「怖い、でも、わかる」。

わかるようになってしまったのが、中年バージョンの私なんだ!と思うと、

ビリビリきます。

遠くまで来たんだなあ。

 

家族にはこのようなことが必要なのだ。

お互いが少しずつ傷つけ合って成長していく。

しかし、もちろんそこには限度というものがある。

必要な程度のワイルドネス、それをどの程度にどのようにお互いが発揮し合ってゆくのか、それを決定してくれるのが愛情というものである。

(『中年危機 (朝日文庫)』p.171)

 

家族が傷つけ合って成長していくということも、

今では実感を持ってわかる…。

 

あとがきにはこのようにありました。

 

中年とは魅力に満ちた時期である。

それは強烈な二律背反によって支えられているように思う。

男と女、老と若、善と悪。

数えたててゆくと切りがないが、安定と不安定という軸でみると、これほど安定して見えながら、内面に一触即発の危機をかかえているように感じられる時期はないだろう。

(『中年危機 (朝日文庫)』p.212)

 

そうなのかも。

 

家族を築き、とりあえず落ち着いたように見えながら、

内面はいつも嵐が吹き荒れているし、

「これからどうしたら…」と思っている。

 

振り返れば、自分がこんなにも他者を、

具体的には友達を、愛情を必要としている時期はなかったです。

 

小さい頃から一人遊びが大好きで、一人でいることに何の問題もなかったけど、

今はかつてなく、誰かと一緒にいることでうまれる発見が好きだと思うようになりました。

 

ちなみに冒頭の友人がどうしてこの本に惹かれたかと言うと、

この箇所がとても響いたんだそうです。

 

偶然を怒り、呪う人も多い。

「どうしてこの俺が……」偶然に交通事故に遭ったのか。

誰にもわかるはずのない悪事の現場を、どうして偶然に知人に見られてしまったのか。

このような話はいっぱいある。

それは確かに偶然である。

しかし、その話を聞いている者には、「内的必然性」が感じられることが多い。

その人は偶然に悪事がバレたと嘆いている。

しかし、それは「見つかるべくして、見つかった」と言いたくなるような感じがするのである。

(『中年危機 (朝日文庫)』(p.25)

 

彼女いわく、「行動を規定する内的必然性」があると感じているようで。

逃げても逃げても結局はそこに行き着く、みたいなことらしい。

それは私にもあって、

私の場合は、他人と比べてしまう習性とか自己中心的な性質だとか、視野の狭さみたいなものなのかなと思う。

 

30代までのパラダイムだとこういうことは「成長課題」などということばで言えて、

それをどう超越するかということだったのが、

中年になるとそれが「内的必然性」として説明されて、

「それはもうどうしたってついて回るから、そういうものとして生きるしかしょうがない」と思った方がしっくり来るような気がするんですね。

 

それが中年の諦念なのかなあ。

 

つま子

40代も終わりに差し掛かった頃また読み返そうかな…と思います

 

今日もいい一日になりますように!

 

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