おはようございます。
梅つま子です。
今日のブログは、
お友達のそらまめさんに昨日、こんなメッセージをもらったところから始まっています。
ツイッターでこんなやり取りをしていました。
リトミック講師のそらまめさん、試験を受けに行かれてたようです。
そらまめさんからの質問
音楽と語学、共通するところが多そうですね✨
— そらまめ🎹3年生👦&幼稚園プレ👦 (@soramametone) June 16, 2022
あなたの(あるいはあなたの生徒さんの)英語はフレーズ感に欠けているね
って言われたらつま子さんならどうするか聞いてみたくなりました😌
でも、つま子さん、絶対そんなこと言われなさそうですが…😉
フレーズ感!
初めて聞いた言葉でした。
リトミックの先生が私の動きや演奏を見て、もらうアドバイスなのですが、毎回同じことを言われています😂
エネルギーが前に進んでいないから一拍目がまるで無いみたい…と。
一個一個、ゆっくり!ちゃんと!生きてみては…と言われて帰ってきました。
とのこと。
それで、
「あなたの(あるいはあなたの生徒さんの)英語はフレーズ感に欠けているね
って言われたらつま子さんならどうするか」
というお題をもらいました。
そらまめさん、ありがとう!
前提
前述の問い「あなたの英語はフレーズ感に欠けているねと言われたらどうするか」を考えるにあたり、前提になるのが2つあります。
まず第一に、私は「フレーズ感」という言葉を知らないです(!)。
音楽でよく使われる言葉らしい。
(太字強調はつま子によるもの)
日常会話では「フレーズ」を単に「文章」の意味で使いますが、音楽用語として使う時には「旋律のひとまとまり」という意味合いです。したがって、「フレーズ感をもって」と、審査票などに書かれるときはどこからどこまでをメロディの一区切りとして歌っているのか不明瞭であるということになります。
旋律のひとまとまり、という意味らしい。
たぶん調べても、この言葉の持つ意味合い、深さには至れないと思うので、
よりよく理解することはいったん断念する。
検索してたどり着いたこの言葉だけを頼りに考えてみます。
(そらまめさん、ズレてたら、教えてください!)
そしてもうひとつの前提が、
私のそらまめさんの音楽的技量についてほとんど知らないことです。
しかしですね、私はそらまめさんのピアノおよびリトミックは、
このときに体験させてもらっています。
このとき、そらまめさんのスキルとレッスンの楽しさに魅了されていて、
そらまめさんにこの「フレーズ感がない」という指摘が当てはまるのかがどうかがまったくピンと来ないです。
「そうなのですか?めちゃくちゃうまいじゃないですか!」
としか思わない。
私にそらまめさんのリトミックを総合的に判断する力はないし、
少なくとも私からは「めちゃくちゃうまい」としか見えない。
「フレーズ感」という言葉を知っていたとしても、フレーズ感がないなどと感じるようなことはないです。
だからこの記事は、そらまめさんの演奏について述べるのではなく、
あくまでも最初の問い、
「あなたの(あるいはあなたの生徒さんの)英語はフレーズ感に欠けているね
って言われたらつま子さんならどうするか」
だけについて考えてみます。
私の英語はフレーズ感に欠けていそう
仮定で「あなたの英語はフレーズ感に欠けている」って言われたら、
「あっ…そうかもしれません」と思います。
「旋律のまとまりの感じられない英語だ」と言われてしまえばそうなのかも。
語学も音楽も、
技能、テクニックのような、規範にのっとるべき部分と、
意志であるとかオリジナリティであるとか、自由に情熱を乗せる部分があり、
その2つで構成されていると私は考えるのですが、
「上手い人の英語」を考えるとき、
文法もしっかりしているし主張もあって、
勢いを持って最後まで言い切る感じがイメージできます。
それに対して私の場合は、主に以下の3つの理由で最後まで言い切ることができないことが多々ある。
1.言いかけたことを、途中で文法に自信がなくて、あるいは適切な語が見つからなくて頓挫する。
2.文法にのっとって話し始めたつもりが、自分の言いたいことからズレて、「これが言いたいんじゃない…」と思って失速する。
3.しゃべっているうちに迷子になって「あれ、何を言いたかったんだっけ」となる。
途中で言葉に詰まるときの割合で言うと、
1が80%、2が5%、3が15%くらい。
だから「フレーズ感がない」と言われたら、
私の場合は「やっぱり文法だな」と結論すると思う。
文章の構築力ということを考えると、読解力とも関係があるから、「長文を読みこなす力も、そういえば、ないな」と思う。
そう考えてみると、今現在やっている勉強は、フレーズ感をアップする勉強ともいえるのかもしれない。
後づけではあるが…。
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何が書かれているかを判断して正しい答えを導く練習は、
自分の言いたいことを論理的に伝える練習にもなるはず。
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というわけで、英語における「フレーズ感」という言葉を、
文法的知識と伝達したい内容の2つで構成されるものと理解しました。
「あなたの英語はフレーズ感に欠けている」という問いへの答え
最初の問いに戻ると、「あなたの英語はフレーズ感に欠けている」と言われたら、
「その通りです。具体的には、私の場合は文法的知識を伝達したい内容に応用する力がないと感じているので、文法を運用するためのトレーニングをします。」
と言うんじゃないかな。
(でも言われた相手によっては「うるせー!あんたに言われたくないッ」と思うかもしれないので、あくまでも、自分がちゃんとアドバイスをしっかり聞ける、信頼できる相手から言われた場合…と仮定しています。)
「フレーズ感のある英語を話すね」というのはきっと素敵なほめ言葉だと思うんですよね。
上手くフレーズ感をまとった英語というのは、
文法的にも正しくて、かつ、
生命力や説得力といったようなパワーがあって、
聞いている人を知的に説得するだけじゃなくて、
人格的な魅力みたいなすらをまとっているような気がします。
脱線
ついでにいうと、空手の形も、たぶん「フレーズ感」という表現で改善できるところがあるような気がする。
ただ挙動を覚えて、順番どおりに形を打っても、ただそれはそれだけのものにしかならなくて、
目の前に想定する敵が見えるような、一連の動き、
どういう動きをすることによってどういうふうに敵を倒すかというのが、
自分にも見ている相手にも説得力のある空手になるんだと思う。
空手の形の動きとして正しいことは前提で、思念の強さでどれくらい場を支配できるのかが大事なのであろう…と思います。
(自分はできないけど、そういうのが上手い空手だ、ということは感じる。)
英語の話に戻ると、
「この人と話していると、私、上手く話せている気がする」という感じになる話し相手がいます。
そういう人は、まずは基本としてその人の中に、
しっかり叩き込まれた文法的知識があることを見せてくれる。
正しいから理解しやすい。
そして、私が次にその表現を使えるようにゆっくり言ってくれたり、そこだけ取り出してくれもする。
内容はといえば、「私に伝えたいこと」や、「私と話していること」からズレずに、
言葉をつむいでくれる。
私の反応を楽しみにしてくれるし、
私が言ったことで、次の彼/彼女の発言が変わることがよくわかる。
笑ったり、時に言いよどむその時間については、
正しい語や表現を探す作業に参加させてくれることまでして、
「今、私はこの人と一緒にいる」と感じさせてくれる。
こういう話し相手の英語にはいつもフレーズ感を感じるし、
私の英語も、こういう相手がいるときには比較的、フレーズ感がアップするように思う。
フレーズ感から少し離れますが、
最近気がついた私の「こんな英語の先生が好き」という基準があって、
それは「正解を知っている先生より、一緒に考えてくれる先生が好き」ということです。
正しさで言えば、ネイティブ講師であったり、専門に英語学を学んだ先生は、
たくさん学ぶことがあるのですが、
そのときは答えを持ってなくても、
私が止まったときに一緒になって表現を探してくれるような先生が好き。
結局はそういうほうが覚えるし、「いっしょに考えてくれた」という事実が、
その先生と出会えた喜びを倍増させるからかな。
たぶん私は正しいことより、ドライブ感にもっと重きを置いているからだろう。
究極的には言語の意味というのは、「よい時間を過ごすためのもの」だと思っています。
以上です
私信のようなブログでした。
自分の過去について考えるとき、
博士課程を出て博論まで書いたのに、
その分野にもう魅力を感じてなくて、
今は違うことをしていることに、多少の切なさがあります。
博士号を取得したのは人文学で、応用言語学/教育学のフィールドなので、
いまやっている分野とまったく接点がないわけではありませんが、
2度目の人生を生きているような。
前世への距離がある。過去の自分がちょっと遠い。情熱を一貫できてない感じが。
それに比べてそらまめさんは、昔から一貫してピアノを学ばれてて、
今は自分の教室まであって、「なんて素敵なんだろう」との思いしかないです。
まぶしい。
特にすごいと思うのは、そらまめさんは自分の生徒さんを持って、育てているということで。
私も英語教師のはしくれ中のはしくれではあるんですけど、
語学というのはピアノや空手よりは「誰から習った」というのは強くないように思います。
師弟関係というのか?
みんな勝手に話者として独立するものなので…。
だから自分自身が「フレーズ感がない」と言われることもさることながら、
自分の生徒が「フレーズ感がない」と評されることの怖さやプレッシャーを、
私にはとても理解できてないと思うし、そういう課題に向かい合っているそらまめさんを尊敬します。
と同時に、そらまめさんの様な存在がいるからこそ、
「誰かを(門下生的に)育てる」という問いが、
自分が向かい合っている現在の延長線上にありうるということを理解できるのだと思います。
(今回そこまでぜんぜん至れなかったけど…)
ありがとう。
(そういえばその昔、私は教授になってゼミを持って、ゼミ生を育てたかったんだった!!)
まずは自分が自分の門下生として、自分が理想とする英語を体現する話者にならないとな。

以上、今日のブログは、そらまめさんからの質問で考えたことでした☆
今日もいい一日になりますように!