おはようございます。
梅つま子です。
誕生日を迎えました。
朝から花束をもらったり、子どもたちの学校に行ったり、
先生とカズオ・イシグロを読んだり、
思いがけないことやしなきゃいけないことやしたいことが盛り込まれた、
いい一日でした。
今年、楽しく健康に生きていこうと決めて、
そんなふうに一日が過ぎたのでよかったです。
ブログは毎日書いているし、
おおむねいろんな感情を自由に吹きさらしているかのように見える私ですが、
不機嫌さとか怒りとか、いわゆるネガティブな感情の表出には非常に不自由を感じています。
人前でプリプリしたいということではないのですが、
行きの場のないこういう感情もちゃんとどうにかしていかないといけないなと感じています。
おそらくは母親という属性が蓋をすることなのだろうなと思います。
社会的に期待される役割とか規範意識が私にもあるので。
とはいえ私自身、自分の母親にもやはり同じことを期待したのだろう(あるいは今も)と思います。
母が怒っていたりつらそうにしていたらすごく不安になりましたし(やはり、今も)。
これから考えていく課題です。
空手や英語という、
正しさを学び取りに行くしかない(自分の体からは、通常運転していたら正しいものが出てこない)ものを学んでいることは、
圧倒的な惨めさと、それに同居する気持ちよさをいつももらっています。
これは私の「博士号を取得した分野に生きてない」という笑い種と呼応する敗北と滑稽とパラレルです。
「枕詞」といえば、
五七五七七しかないのにそのうちの五を消費してしまう日本文学の狂気ですが、
それに似たものを感じました。
なにやってんだよもったいない。貴重なシラブルを。
しかし、無駄のなかにこそ飛躍があり、窮屈の中に冗長があることを、
私は自分の選び取った人生から教えてもらってるのかもしれません。
そうならばこれからも短歌的な叙情を行きようと思います。
ここ数年、私が自分の意志で離れていった人たちがいます。
接触や交流の頻度を著しく減らしたことに、
実は大変満足しています。
もちろん、彼らが私の人生にたくさんいたバージョンと今の私の人生を比較することは不可能ですから、今の自分から言えることだけですが。
距離を置いた穏やかさの中で、相手の安寧と幸福を祈ることができるようになった。
そして、相手も私の安寧と幸福を祈っているだろうと信じられるずうずうしさ。
加齢がもたらした変化を喜ばずにいられません。
日々はこれからも続いています。
今日もいい一日になりますように!