おはようございます。
梅つま子です。
オンラインで英会話を教えているのですが、
最近、その回数が3,000回を超えたようです。
前回、2,000回を超えたときに記事にしました。
それが今年の2月のこと。
そこからプラス1,000回です。
始めたころは、3,000回なんて想像もつかない数字でした。
英語を教えることで感じるのは、
・教えることでめちゃくちゃ勉強になる
・学ぶモチベーションがアップする
・本が増える(役に立ちそうなものをつい買ってしまう)
でしょうか。
オンラインで働くこと、
そして英語を教えることが、
最近はあまりに快適になりました。
70になっても80になっても続けられますように、
と考えています。
だけどAIの発展が目覚ましいので、
そのうちAI先生が安価でしかも上手に教えてくれるようになるのでしょうかね。
AIにはない生身の人間としての価値は何なのだろうか…と考えないと仕事が奪われてしまいそうですね。
私自身が、ひとりの先生と、英語の本を読むという形で英語学習を続けて2年ほど経ちます。
その経験で考えると、誰かと学習するということは、
自分の(そして相手の)成長に付き合うことだし、
経験を共有することでもあると考えています。
一日の出来事、週末の出来事、人生の出来事を話すこともあれば、
読んだ本自体のなかに、そのときの自分たちがいるし、思いが残ります。
こういうことは唯一無二だと思ってるけど、
どうなんでしょうかね。
もしAIと読書体験を共有できるようになったら、
「あなたはかつて『**』という本を読んだときにこういうことも言ってましたね」とか言われたら、
そのAIと一緒にずっと生きていきたいとか思うようになるんだろうか。
生身の人間とできることは、ずっとそのままであってほしい気もするけれど、
AIがどこまでできるようになるのか知りたい気もする。
今現在だって、
私の尽きぬ英語の疑問に根気強く付き合ってくれるのはchatGPTであって、
それは数年前には想像できなかったことを考え合わせると、人間と学び続けたいという自分の感覚も変わっていくのだろうか。
それにしても、「学ぶ」という行為にはその人の個性が出るので、
その一端をお見せすることって、自分のクセや弱さを見せることでもあって、
こそばゆかったり不安になったりするものです。
自分も学習者であるからその心もとなさがわかる。
教える立場に立つときにも、わかり続けていたいです。
教えることと学習パートナーであることは重なりつつもちょっと違うのかなと思っていて、
教えることは知識や技能として高めることはできても、
学習パートナーとしては、自分の感情や経験といったもう少し柔らかいところを提供する感じがして、
自分がどれだけ自分を見せるかの意思決定がかかわってくるように思っています。
お互いがお互いの良さを出し、もっと先まで行こうとする営みの中で、
「自分はこの人と学ぶ意志がどれくらいあるのか」を問われているのではないかと。
実際のところは、一回一回のレッスンがそんなに覚悟の走ったものではなくて、
むしろ回数を重ねて、お互いにおなじみになってくると、
(ありがたいことに)ほっとするような時間になっていくのですけれど、
その親しみやすい気安さに安住しないで、
学びのピリッとした感じが味わえるようなレッスンにしたいなと思っています。
その人がもう一歩先に進めるためには何があるといいのかな、というのを考えられるといいなと思います。
自分がやってよかった勉強法やテキストを紹介することはできるけど、
実際に点数が上がることは、できるようになったなという実感が見えたら誰でもうれしくて。
そういうのを導けるといいなあと思いますし、私自身も導かれたい。
教えるようになってもやはり英語は難しいし、
難しい単語に、複雑な構文に、気がくじけそうになるけれど、
やっぱり英語と英語を教えることは、
私の人生に起こったとてもよきもので、
これを手放すわけにはいかないと思っています。
今日もいい一日になりますように!