明日も暮らす。

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シンプルで暮らしやすい生活を目指しています。オンライン英会話(英検1級)と空手(黒帯)が趣味。大学院博士課程修了(人文科学)。2児の母。

「分人主義」が教えてくれること。親であることのしんどさを客観的に認めていくために。

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おはようございます。

梅つま子です。

 

子どもを産んで、専業主婦になって…ということをしてきたこの8年ほど、

アイデンティティに悩んできました。

 

ありていに言うと、

母であったり妻であったりといった自分が、私はそれほど、しっくりこないのですね。

 

しかし、「しっくりこない感じ」に対しても、「しっくりこなくてもいいじゃん」とまでは思えなくて。

自分でもあまり納得がいっておらず、

「しっくりきているべきなのに、この違和感は何だ」と思ってもいます。

 

このモヤモヤした思いの沼から、少し引き上げてくれる本に出会いました。

 

この本、画像にある帯のとおり、

「人間関係に悩むすべての人へ」の、希望の書だなあと感じました。

 

 

「分人」とは

私の理解したところ、

分人というのは、個人の対人関係ごとに開かれる分身(=分人)みたいなもので、

その分人の集合体が、その人になる、ということです。

人間関係ごとに違う分人が、その人に中に構築されます。

そして、どれがメインとかサブとか、ホントの顔とか裏の顔とかなく、

すべてが自分。

 

たとえば私には、

母の娘としての私の分人、

姉の妹としての私の分人、

夫の妻としての私の分人、

娘の母としての私の分人、

息子の母としての私の分人、

数は多くないけど親しい友人がいて、その友人ごとに分人がいます。

ブログを書いているときの、「梅つま子」としての分人もいるし、

オンライン英会話で英語を話しているときは「(仮)Tina」の分人が立ち上がります。

 

この本、とてもわかりやすいので、平野啓一郎さんの説明を多く引用していきますね。

太字強調は梅つま子によるものです。

 

分人とは対人関係ごとの様々な自分のことである。

恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人……それらは、必ずしも同じではない。
(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』7ページ)

 

一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
個人を整数の1とするなら、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。

私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。

そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。

分人の構成比率が変われば、当然、個性も変わる。

個性とは、唯一不変のものではない。そして、他者の存在なしには、消して生じないものである。

(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』7から8ページ)

 

人間は決して唯一無二の「(分割可能な)個人 individual」ではない。

複数の「(分割可能な)分人」である。

(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』36ページ)

 

24時間1年365日と決まっていて、交際範囲も、その有限の時間の中でしか広げられない。

その同じ条件の上で、分人の数には、人によってかなりの差がある。

それはおそらく、どれぐらいの数の分人を抱えているのが、自分にとって心地よいかで決まってくる。

(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』87ページ)

 

 

関係性のこと

私に分人が作られるように、相手にも分人がいます。

関係性というのは、

「私の中に作られるあなた向けの分人」と、「あなたの中に作られる私向けの分人」がうまくいくかということになります。

 

私の新しい分人が生じる気配がなさそうな人とは、親しくはなれない。

逆も真なりで、こちらの態度が固ければ、相手も取りつく島がない。

親密になるということは、相互に配慮しつつ、無理なくカスタマイズされるということである。

(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』85から86ページ)

 

母親としての分人を持つことの意味

冒頭の、私の、母親や妻としての「しっくりこなさ」に戻ります。

本書ではこのように「専業主婦」に対する言及がありました。

 

私たちは、日常生活の中で、複数の分人を生きているからこそ精神のバランスを保っている。

会社での分人が不調を来たしても、家族との分人が快調であるなら、ストレスは軽減される。

逆に、どんなに子供が可愛くても、家に閉じこもって、毎日子供の相手ばかりしている(=子供との分人だけを生きている)と、気分転換に外に出かけて、友達と食事でもしたくなるだろう。

専業主婦の育児疲れを理解するには、その分人の構成比率に対する配慮が必要だ。

(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』115ページ)

 

子どもを育てるということは、特に子どもが幼いうちは、24時間の責任が伴い、

家に閉じこもって毎日子どもの相手をすることを意味します。

 

仕事を完全にやめて専業主婦になる人もいるだろうし、

仕事に戻ったとしても、多くの人が時短で働くことを選ばざるを得ない現状があります。

 

そうすると、労働者としての分人を更新する機会も減ったり、失ったりするし、

友人と会う時間もないから、友人との間の分人を更新する機会も失いがちなのです。

 

これは、私にとってはとてもきついことでした。

自分を構成する豊かな分人を、兵糧攻めするような感覚とでも言ったらいいでしょうか。

 

分人という希望

「あの人が苦手」とか「生理的に合わない人」とか、そこまで行かないけど「なんか気が合わない」とかいう相手に、生きていると遭遇するわけです。

 

で、分人主義の考え方でいうと、そういう人がいる、というよりは、

 

ある人の、自分に向けられた分人と、

私の、その人に対して向けられた分人との関係は、

不快である

 

ということになるのでしょう。

その人丸ごとや、自分丸ごとを否定したり攻撃するよりも、

私は分人主義の考え方のほうが救いがあるなと思いました。

 

たまたま、お互いがうまくいっていないだけで、

お互い、違う相手と向き合っているときは快適な関係を築ける、

と考えておくほうが健康的です。

 

資産を分散投資して、リスクヘッジするように、私たちは、自分という人間を、複数の分人の同時進行のプロジェクトのように考えるべきだ。

学校での分人が嫌になっても、放課後の自分はうまくいっている。

それならば、その放課後の自分を足場にすべきだ。

それを多重人格だとか、ウラオモテがあると言って責めるのは、放課後まで学校でいじめられている自分引きずる辛さを知らない、浅はかな人間だ。

学校での自分と放課後の自分とは別の分人だと区別できるだけで、どれほど気が楽になるだろう?

(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』94ページ)

 

自分にとって付き合うのがラクな分人と、

自分に緊張や不快をもたらす分人がいるとき、

前者を選ぶのはごく自然なことですよね。 

 

不幸な分人を抱え込んでいる時には、一種のリセット願望が芽生えてくる。

しかし、この時にこそ、私たちは慎重に、消してしまいたい、生きるのをやめたいのは、複数ある分人の中の一つの不幸な分人だと、意識しなければならない。

誤って、個人そのものを消したい、生きるのやめたいと思ってしまえば、取り返しのつかないことになる。

(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』109ページ)

 

ラクに生きられる分人を求めて、探索するのは逃げというよりは、むしろとても前向きなことだと思います。

ストレスにさらされながら無理に毎日を送るより、

自然に、気楽に生きられるほうがいいに決まってる。

 

環境を変えるというのは、単純だが、特効薬的な効き目を発揮することがある。
(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』113ページ)

 

理想的な構成比率の分人を生きられるようになった(=自分が見つかった)ということは、祝福されるべきことだ。
(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』113ページ)

 

他者が自分にもたらすもの

分人は自分ひとりでこしらえられるものではなくて、

必ず他者がいるからこそ、自分に分人が生じうる、ということが本書では強調されます。

 

誰かといる時の分人が好きという考え方は 、必ず一度、他者を経由している。

自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。

(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』125ページ)

 

愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。

そして同時に、あなたの存在によって相手が自らを愛せるようになることだ。その人と一緒にいる時の分人が好きで、もっとその分人を生きたいと思う。

コミュニケーションの中で、そういう分人が発生し、日々新鮮に更新されてゆく。

だからこそ、互いにかけがえのない存在であり、より一層相手を愛する。

相手に感謝する。

(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』138ページ)

 

これ、あれですよね。

その昔ZARDが歌っていたやつ!

 

「一緒にいるときの自分が一番好き」って、

「あなたといるときの素直な自分が好き」って、

 

まさに、分人主義のことですね…!

OH MY LOVE

 

「自分」というのは、誰かがいるからこそ形成されるもので、

その人といるときの自分が、自分にとってどうか

という話なんですよね。

 

自分に対してポジティブな思いをもたらしてくれる何かが、

その相手にはあるのかどうか。

 この人と一緒にいると、優しくなれるとか、成長を実感できるとか。

 

それは、相手を経由して戻ってくるブーメランなんだと思います。

自分も、相手に向かって見えないブーメランを放ってると同時に、

相手も、自分に向かって見えないブーメランを放ってる。

 

再び、お互いの手に戻ったブーメランが、満足のいくものであるのかどうか。

誰かと人間関係を結ぶということは、無言のうちにそれについて吟味しているんだと思います。

 

お互いの手に戻ったものが、お互いにとって快いものであれば、

その関係は自然に、長く続くものになるはずです。

 

再び、親であることの難しさ

ここまで考えたところで、

親であることの難しさをまた考えてみます。

 

子どもが生まれ、育つとともに、

自分の中に、その子に対する分人が育っていく。

その子どもの中にも、自分に向けられた分人が大きくなっていきます。

 

乳幼児のうちは、親は、子どもの分人構成のうちのほとんどすべてです。

それってしんどいことですよね。

子どものなかに、分人といえば親しかいないのも窮屈だし、

そんな分人が自分に向けられている親も逃げ場がないわけで。

 

子どもが保育園、幼稚園に行きだせば、多少ゆとりが出るかもしれませんが、

親には、「子どもの中にある分人それぞれへの監督義務」

みたいなものもあって、

「自分の子どもが他の子どもと仲良くしてるか」

「叩いたりしてないか」

「いじめられたりしてないか」

なども、多かれ少なかれ、見ていかなければならないわけです。

 

たとえば、大人同士の人間関係だったら、

「え、宅急便の人に対して、だいぶそっけない態度とるんだね…」

ということは、思っても言わない、ということが許されるかもしれないけど、

(むしろ言わないほうがいいこともあったりするかもだけど)

 

子どもがお友達にぶっきらぼうな口をきいていたら、看過していられず、

「それ、自分が同じこと言われたらどう思う?悲しくならない?どう言ったらいいと思う?」

みたいに問い詰めたくもなりましょう。

それに、「親は何やっているんだ」みたいな監視の目は、

常に光っていますよね。そういうプレッシャーもあります。

 

子どもの友達、その親御さん、幼稚園の先生…

いろんな人の中のいろんな分人が絡まりあって、

何とかいろんな人の思いを汲みとって、親は、複数の分人間の仲介をすることになる。

考えただけで頭が痛くなります。

 

「子どもは親を選べない」とはよく言われるけれども、

どんな子どもが生まれるか、生まれてみないとわからないように、

親になったときに自分がどんな分人になるかは、割と予測がつかないものであります。

 

子どもとうまく関係を結べないこともあるでしょう。

義理の家族との関係を結べないこともあるでしょう。

子どもを持ったことによって、パートナーが、子どもに向けている分人を見てがっかりしたり、

パートナーとの関係が決定的に変わってしまうこともあるでしょう。

 

私は自分が結婚し、子どもが生まれてから、

「好きで結婚したんでしょ?

好きで子どもをもったんでしょ?

最後まで責任取れ!」

という考え方はできなくなり、

 

「努力しようとしても、うまく行かないこともあるよな。

それはしかたない。」

 と思うようになりました。

 

分人主義が、夫婦関係や親子関係に対してゆとりをくれると感じるのは、

「自分のなかにある、その人への分人が、しっくりこない」とか、

「その人の中にある、自分に向けられる分人が、しっくりこない」とかは、

一時的なものであり、変わりうるという、

穏やかな人間理解に基づいているからだと思います。

 

終わりに

私は、分人主義という考え方を知って、

うまくいかないときは、「分人の凍結もいいんじゃないかな」と思うようになりました。

 

今すぐ、0か100かで決めなきゃいけない、のっぴきならない関係もあるだろうけど、

無理に決めないで保留にしておくのも、ひとつの知恵なのかもしれないです。

 

高校時代の友人との分人は、何年かに一度、活性化すればいいくらいで、日々更新し続ける必要はないと感じる。

(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』87ページ)

 

毎日会っていれば、更新されやすくはなるというのは真実だろうけど、

あえて積極的に更新されないように、慎重に距離をとることもできるのかもしれません。

 

たまたま、お互いの今の分人同士はうまくいっていないとしても、

1年後、2年後は違うかもしれないです。

 

あなたの中の分人の構成比率は変化する。その総体が、あなたの個性となる。

10年前のあなたと、今のあなたが違うとすれば、それはつきあう人が変わり、分人読む本や住む場所が変わり、分人の構成比率が変化したからである。

10年前には大きな位置を占めていた当時の恋人との分人が、今はもう、別れて萎んでしまっていて、代わりにまったく性格の違う恋人との分人が大きくなっているとする。

すると、あなた自身の性格、個性にも変化があるはずだ。

個性とは、消して生まれつきの、生涯不変のものではない 。

(『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』89ページ)

 

家族の中ではなかなか難しいかもしれないけど、

自分自身にも、相手にも、

緩やかな期待をもって、追い詰めずにお互い生きていくことを、

許していけるといいなと思います。 

 

つま子

また改めて読み返して、理解を深めていきたい本でした

 

今日もいい一日になりますように!

 

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