おはようございます。
梅つま子です。
今日のブログは、毎週通っている空手教室での出来事からつれづれに考え事をしてみた日記です。
合同練習での出来事です
その日は、小学生のお兄さん・お姉さんとの合同練習。
全員で、30人くらいはいるでしょうか?
幼児だけの練習日より、人数が圧倒的に多くて、にぎやかです。
とにかく元気が有り余っている小学生たち。
ちょっとの休み時間でも、おしゃべりしたり遊んだり。
ゲームなどの道具がなくても楽しく遊べる姿は、「古き良き子どもたちの姿」みたいな感じがします。
空手を習いに来てる子だけあって、みんな体を動かすのが大好き。
走り回り、体を使って遊んでいます。
座り込んだりしてる子は誰もいない。
こんなことがありました
小学生低学年の女の子2、3人が、ある男の子(A君としましょう。小2くらい)にちょっかいを出している。
くすくす笑いながら、A君をつんつんつつくような感じ。
するとA君は、ちょっと大げさな手の動きで、女の子たちにやり返すような感じ。
そして始まる追いかけっこ。
男の子と女の子が一緒に駆け回ってるのは、なんだか新鮮な感じします。
そんな遊びの中で、A君がどん、と押し、押された相手はぐっと耐える、というようなことを始めました。
A君に押されたい人がどんどん回りに出てくる。
そのとき「押されたい人」として加わったのが、体の一回り小さい年長さんの男の子。
A君が、その年長さんの男の子をどん、と押したら、ほかの小学生に比べてふんばる力が弱かったのもあり、ちょっとしたアザができてしまった様子。
先生の知るところとなって、A君、叱られの対象に…。
先生「またお前か。」
どうやらA君、初めてではない様子。
「今度やったら、空手やめてもらうからな」という、ありがたくない言葉までもらってしまいました。
かつて本当に、度が過ぎる遊びをして、退会になった子もいたみたいです。
悪いのは、誰?
そもそもこの遊びに誘いだしたのは、女の子数名。
今回の場合、年長さんがちょっかいを出してしまったところもある。
でも何であれ、小さくても怪我をさせてしまったら、「A君が悪い」、になってしまう。それはそうだと思う。
A君は愛嬌のあるお調子者で、一緒にいると楽しい子なんだと思いました。
みんな、A君と遊びたい。
その「遊び」のレパートリーが、遊具やゲームやおもちゃのない空手教室では、「ちょっかいを出してじゃれあう」しかないように見える。
ちょっかいを出されたら、やり返すしかない。
その定型は容易に崩せるものでもないみたいで、A君自身に選択できる感じではなくなってるような印象を受けました。
A君自身は、どうなんだろう。
楽しいんだろうか。
楽しくないんだろうか。
楽しくないとしたって、「ちょっかい出すの、やめてください」とA君から言えるんだろうか?
問うまでもなく、言えるわけがない。
愛嬌のある、お調子者役。
もしかしたら、「自分からその役割を望んでいるわけじゃないけど、できてしまうし、 周囲からそれを期待されている」のではないかな…
と思いました。
ここから先は、A君を離れて、私の勝手な妄想。
現実の自分の手に負えなくなるくらい、「周囲からの期待」がエスカレートしていく場合を考えてみました。
妄想スタート
求めに応じてがんばってみる
「やりたいこと」と、「できること」と、「期待されていること」がキレイに一致することは、現実にはあまりない。
集団において、「自分からその役割を望んでいるわけじゃないけど、できてしまうし、 周囲からそれを期待されている」ことについて考えました。
前の職場の私も、そんな感じでした。
育休を切り上げて復職してしばらくして、気づいたこと。
なんか、要求が高くなってない?
仕事のペースも内容も、スピードアップしてるし、難しくなってない?
でも、割り振られる仕事に口を挟める立場ではない。
やるか、辞めるかの世界。
やるしかないから、こちらも、求めにしたがって、少しずつ変える。
精神的な労働強度がどんどん上がる。
書類の作り方、会議の参加の仕方、仲間とのコミュニケーションのとり方。
最初のうちは、なんとか、できる。
やれば評価してもらえるし、自分も楽しい。
やがて、ついていけなくなる
でも、あれ?
なんかだんだん、居心地が悪い。
自分のペースがどんどん乱されるし、もともとすごく得意なことをしているわけじゃないから、疲れる。
なんか違う、と思っても、スピード感はどんどん上がっていくばかり。
疲れが取れない。
なのに、もっともっと変化すること、対応することを求められる。
最初に、「がんばれば、できてしまう(感じがした)」のは、私にとっては不幸なことだったのかもしれない。
いやもちろん、もっともっとできる人はできるし、期待以上のものができた気はしないんだけど
以前、こんな記事を書きました。
子どもを産んで職場に復帰したら、RPGだったはずの仕事が、テトリスに変わってたショック。
今思うと、子どもができるまで、仕事は、RPGみたいなものでした。
実力からいうとちょっと難易度高めのクエストがいつも来る。
必死にそれをこなすと、ちょっと自分の経験値が増えて、いつの間にか、レベルアップしている。
それを繰り返すことによって、ヘナチョコだった自分が、少しずつ自信がついている。
そのゲームがすっかり楽しくなっていました。
ところが、子どもが生まれて、復職してみると、PRGだったはずの仕事の様子がおかしい。
前まではなかった「タイムリミット」と、「予測不能性」が加わってしまった。
RPGやるつもりで画面の前に座ったら、いきなりテトリスが始まってた!みたいなショック。
しかもなんだか速度が異常に速い。
かつ、置き場に困るようなブロックばかり落ちてくる。
次に落ちてくるブロックが読めない。
がんがん降ってくるブロックを、ただ何も考えずに消すだけで精一杯。
RPG=回復と成長のゲーム、テトリス=消耗と自滅のゲーム
RPGというのは、私にとって、回復と成長のゲームです。
回復魔法があり、宿屋があり。
敵を倒して経験値をつめば、レベルが上がる。
レベルが上がれば、強力な使える魔法、破壊力のある武器を使えるようになる。
そして最終的にはボスを倒せるまでの実力が手に入る。
他方のテトリスは、消耗と自滅のゲーム。
がんばればがんばるほど、どんどん負荷が上がっていく。
プレイ時間が長くなれば点数は伸びていくけれども、根本的な回復させてはもらえない。
落ちてくるブロックの速さに対応できなくなり、ブロックを置く場所もなくなる。
納得してないけど、とりあえず置くしかないから置いたブロックの上に、さらにブロックを重ねることになってしまい、選択肢がどんどんなくなる。
テトリスで身動き取れなくなった私のこと、周囲からは、「自分が上げたハードルが高くなりすぎて、堪えきれなくなった」ように見えただろうな…。まさに自滅。
誰が私のゲームをテトリスに変えたんだろう
私のほうでは、ずっと同じように仕事をしていたつもりなんです。
私のゲームをRPGからテトリスに変えたのは誰だろう?
誰でもない、必然の流れなのかもしれない。
でも「テトリスになってます。おかしい。」と言える相手もいない。
それに、職場が私にとってはテトリスなゲームでも、RPGのようにして続けられる人はいた。
他人一人変えることも難しいのに、ましてや集団を変えることなど無理だと思う。
それができたら革命として歴史に残ることになるんだと思う。
それがなかなかできないから「革命」という言葉があるんだよなあ。
「なんかおかしい」と気づいたらどうするか。
自分が属している場所を支配しているルールが、何だかおかしい。
自分にとって、回復と成長のゲームになってない。
消耗と自滅のルールになっている。
このフィールドで回復、成長していくことは難しい。
と気づいたら、もうその場から去ったほうがいいような気がする。
その場から去るための理由探しに奔走していいように思う。
難しいのは、テトリスもRPGも楽しいのだ。ゲームだから。
それをやっていればやっているだけ、自分を鍛えている感覚に陥る。
それが毎日の習慣だから、その中にいることに違和感がない。
ゲームに参加している時に、ゲームを辞めることは難しい。
明日もあさってもゲームは続いていくし、そのゲームをやめた自分なんか、想像もつかない。
それでも、やめることがどんなに困難であっても、自分のプレイしているゲームが、自分以外の誰かに支配されすぎている気がしたら、やっぱり、そのゲームをプレイしないほうがいいように思う。
これも今、テトリスをやめた身だから思えることなんだけど。
渦中にいるときは「やめるなんてとんでもない」と思っていたから。
私の事例と、私が知る数少ない事例からの推測でしかないといわれればそれまでだけど、一度テトリスになってしまったゲームは、そう簡単にはRPGには戻らないと思うからだ。
せめてもの「救い」を見つけたい
もし、今すぐにテトリスから逃げ出すことができない状況だったら、せめてもの「救い」を見つけたい。
私がこれまでの人生で得てきた「救い」は、仲間でした。
この人(たち)と一緒にいる自分が好き、この人(たち)と一緒にいると成長できる
と思えたら、その人(たち)を手放してはいけないと思う。
困難な出来事は、人生のなかで、避けがたく降りかかるとしても、信頼できる誰かがいたら、だいぶ「マシ」になる。
私の人生のなかで、私がこれまで属してきた、いくつもの集団。
スライムから順番に倒させてくれる暖かいRPGだったときもあるし、矢と爆弾が降ってくるみたいなきっついテトリスだったときもある。
成長できている実感を持てた、RPGな場所にいたときはいつも、私の近くには信頼できる仲間がいたことを思い出す。
年齢を重ねて強くなったし、あれほど守りたかったキャリアを捨て去った身としては、もうあまり、怖いものはない。
でも、子どもについては思う。
子どもには、RPG的なフィールドで自分の能力を伸ばしていってほしい。
テトリス的なフィールドで、心をすり減らすような思いをしてほしくない。
だから、子どもたちには、いい友達を見つけてほしいな。
もちろん、友達は親の力で見つけてもらうものじゃないけど、環境を作ることについて、手伝えることがあるなら、してあげたいぞ。
だいぶ話がそれたけど
空手教室のA君については、A君が誰かを怪我させたら悲しいし、これからは私も積極的に言っていこうと思う。
A君に何か言う、というよりは、A君を「どつかせ役」にしてしまう周りの子、あるいはそのちょうど間に対して、かもしれない。
「やめな、怪我させちゃうよ」
「今度やったらA君空手やめさせるって、先生言ってたよ」
…言い方が、あまりに子どもっぽいな。
でもみんなが、先生のことを尊敬して信頼している空手教室では、それが言えるな。
先生に同じことを何度も言わせてはいけない。空手教室ではそれがルールだから。
そして、私が空手教室に通えるのは、空手教室に通ってきてくれる子どもたちがいるからこそ。
子どもたちが辞めちゃったら、私も通えなくなっちゃうもんね。
せっせと、おせっかいおばさんすることにしよう。
白帯が言っても説得力ないかな。
はやく色帯が欲しいなあ。
今日もいい一日になりますように!