明日も暮らす。

明日も暮らす。

シンプルで暮らしやすい生活を目指しています。オンライン英会話(英検1級)と空手(黒帯)が趣味。大学院博士課程修了(人文科学)。2児の母。

『星の王子さま』にみる、初対面での距離のつめ方。~過剰さに過剰さで応じる~

スポンサーリンク

スポンサーリンク

おはようございます。

梅つま子です。

 

タイクツさんというブロガーがいて、

頭がよくて文章とイラストがうまくて、

特に女性を中心とした人間関係の考察に長けている鬼才で、

同時代に生きていることの喜びを感じさせてくれる方なんですが、

その方が私のブログ記事に反応して、記事を書いてくれました!

 

こういう、ブログやっててよかったなという瞬間は定期的(頻度多め)に訪れます。

 

「星の王子さま」がTwitterにいたらたぶんこんなかんじ、というタイトルです。奇抜。ツイッター。

 

www.mamazero.com

 

ちなみに、タイクツさんの今回の記事の元は私のこちらの記事です。

なぜ星の王子さまが出てくるのか、

これは実は2年越しのテーマであったりします。

 

www.tsumako.com

 

今年4月に書いた私の上記の記事は、

会いたくても会えない、焦がれるような相手ができた(オンライン上に)とき、

そういう相手に対してどうしたらいいんでしょうかね?ということを問題意識にしていて、

責任があると感じることができることこそ希望なのかもしれない

ということが一応の結びです。

 

今回のタイクツさんの記事は、これをタイクツさん側で受けてくださったものです。

「つま子さんのブログを読んで考えたまったく別の妄想を漫画にしたためた」とのこと。

 

この有名な冒頭部分をTwitterで表してみました。星の王子さまTwitter版のような…いわゆる2次創作ってやつですかね。あと、コレは一応漫画のつもりで作りました。

「星の王子さま」がTwitterにいたらたぶんこんな感じ【漫画】 - ママゼロブログ

 

タイクツさんの設定では、

『星の王子さま』の作中主体も星の王子さまもツイッターをやっていて、

作中主体が「イラスト募集中です」と投げかけ、

そこに王子が「ねえ……ヒツジの絵をかいて」とリプするところから始まります。

なんという展開!衝撃であります。

 

2人の出会いが、ツイッターでのやりとりだったら?

非常に前衛的なこの仮定によって、私はいろいろ考えることができました。

 

というわけでこのブログ記事では、

タイクツさんの星の王子さまと作中主体のツイッター上でのやりとりからわかることを、私なりに解題してみようと思います。

 

1.王子、グイグイ行く

タイクツさんの設定の中で、「ぼく」は、「迷子の飛行機絵師」という名前で、

ツイッター上でお題を募っています。

「イラストお題募集中です。お気軽にリプライください」との投げかけに、

星の王子さま(「推しのいる王子」)が、

「ねえ・・・・・ヒツジの絵を描いて・・・・・」とリプするところから、

ツイッターのツリーは始まっています。

 

王子、出会いからいきなりグイグイ行きまくっています。

初対面の人に「ヒツジの絵をかいて!」って言っていいの…?

これ、ツイッター上とはいえ、だいぶ距離の詰め方にクセを感じる。

物語として読んだときは、王子の要求から始まるこの2人の出会いの場面をすんなり受け入れましたが、

ツイッターという、リアルとバーチャルの中間みたいな場所に持ってこられると、

ドキッとする。

いくらお題を募っていたからといって、

「ヒツジ」はだいぶ突飛な依頼。なぜヒツジ?

この方、飛行機絵師なのに。。。

 

この唐突かつ奇妙な2人の出会いから、パターンを抽出してみます。

2者間の関係性の構築は、どちらか一方の過剰なアタックで始まる

という仮説です。

もちろんこの場合は王子のアタックです。

 

よく、2者関係の馴れ初めとして「どちらからともなく意気投合して」とか語られるけど、

そんなことあるか?

2者のうちどっちかがイニシアチブを取ったんじゃないか?

そしてそれはしばしば過剰なアクションによって表現されたんじゃないか?

 

というのは、私は身に覚えがわりとあって、

私が仲良くしている相手たちには、

私がそこそこ過剰な一手を繰り出した過去があるのです。

 

ひとつ例を出すと、

大学のときに、ほぼ初対面のその子にいきなり即興であだ名をつけて、

彼女のことを、20年以上そのあだ名で呼んでいる。

今思うと結構とんでもないです。

初対面で、「きっとこの子と私は仲良くなる」と思い込んだ私の謎の自信もどうかと思うし、

その子がどういう子かもよく知らないうちに、本人の許可もなくあだ名をつけて、

いきなり自然に呼び始めるなんて暴挙です。

距離の詰め方が瞬間移動過ぎて、さすがに今はこんな真似はできません。

でも、幸いなことに、彼女とは出会った大学2年次以来の親友であり続けていて、

今も定期的に会う友人の一人です。

きっと彼女は、私のことも、そのあだ名のことも、気に入ってくれたんだと思う。

本当によかった…違ってたらどうしよう。20年間我慢しながら、彼女は私の親友なんだろか。

 

で、もちろん今はこんなことは絶対にしないけど、

そのときの私と今の私は地続きなわけで、

私は少なくとも、「私あなたと仲良くしたいと思ってます!」ということが相手にわかりやすく伝わることに躊躇がありません。もちろん誰彼構わず近づくことはないですが。

私は結構この自分の直感を信じていて、(親友といえるほどに発展するかどうかは別として)外したことは、記憶の限りないです。

 

というわけで、

世の中の人間を2つに分けたら私が王子側の「距離を詰めるタイプの人間」であることは確実なのでしょう。

 

ただし、こういう風に考えたり行動したりする人ばかりではないことは、

私も年を重ねて多少はわかるようになりました。

鯖缶さんのブログのこの記述は非常に参考になりました。

(鯖缶さん、勝手に引用してすみません。)太字強調は梅つま子によるものです。

 

僕は「距離感を詰めてこようとしない人」の方が好きだ。というか、「距離感を無視してくる人」のことが苦手、というか。犬が好きな人がいたとして。犬好きの連中は、「世界中の人間が犬好きであるべきだ」と思ってる節がある(※妄想です)。連中は、犬を苦手な僕に対して、「犬が苦手なのは、犬のよさを分かってないからだ、ああ、かわいそうに。ちょっと一緒に暮らせば、絶対に好きになるのに」とか思っていやがるんだ(※妄想です)。僕は、「自分は犬を好きだけど、あなたが犬を好きかは分からない」という前提に立てる人じゃないと仲良くなれる気がしない。

職場で、「せっかく一緒に働くんだから、親しくした方が楽しいし安心。みんなもそう思ってるに違いない」と考えるタイプの人がいる。うんざりだ。ほっといてくれ。そういう人とはどうせ犬も好きなんだろう。僕は「敵意がないことを示すのも仕事のうち」とは思っているので、「犬好きの連中」にも話を合わせてしまうところがある。そして、職場なんてそんなもの、と受け入れてもいる。「犬好きの連中」を撲滅しようなんて全然思ってない。それどころか、内心嫌いなことを悟られたくなくて、むしろ明るく挨拶してしまう。


だけど、勘違いしないでくれ。僕が好きなのは、僕に積極的に話しかけてこない方の人なんだ。そして、そんな人に対しては、僕も積極的に話しかけない。どうなるか。「なんとなくいいな」と思ってる人とは仲良くなれない、というジレンマが続く。

【日記】TOEIC受けてる場合じゃねえよ㊳ - 鯖缶@3rd&forever

 

私のような考え方や行動をとる人ばかりではない。

ただ勘違いしないでほしいのは、私が行動に移すのは、

「本当にこの人とは仲良くなりたい、こんな人とはもう出会えないだろう」と思ったときだけで、

平均すると、3年に一人出会えるかどうかというところでしょうか。

自分のこの積極性については、控えめに、本当にここぞというときにだけ、と言い聞かせつつ、

「自分の勇気の不足によって、仲良くなれる可能性のある人にアプローチし損ねているのではないか?」という思いもあります。難しいところ。

 

しかしそれにしても、王子の初手はだいぶ強引だしトリッキーだなあと思います。

いきなりヒツジの絵を依頼した上で、さらに難癖をつけてるし。

 

ヒツジの絵を依頼しながら「かきなおして」とサラッと(2回も)言う王子は、

飛行機絵師と友達になる未来しか見えてなかったと思う。

 

2.王子の要求に応じているうちに、落ちる

ヒツジの描きなおしを2回も要求されて、飛行機絵師は、

キレ気味に、ヒツジ入りの箱を描くという暴挙に出ます。

ところがこれを王子は気に入るのですね!

 

箱の絵を描いて、

「もうこれで勘弁してください、あんたの欲しがってるヒツジ、この中に入ってますんで」

と言い捨てた飛行機絵師の投稿に、

王子は「ぼく、こんなのがほしくてほしくてたまらなかったんだよ」との大絶賛。

このテク!落として落としてからの爆突き上げ!

 

ここまでの展開で、王子の一連のテクは施しおわっています。

結果、心奪われているのは実は飛行機絵師のほうなんですよね。

物語の中で、ここから先のパワーバランスは、どちらかというと絵師側の片思いのターンが続く。とにかく振り回されている印象。

これは非常に巧妙です、巧みな王子。

 

それで思うのは、

王子の過剰なアプローチに応じるのも、一種のエクストリームなのでしょうね、ということ。

距離の詰め方があまりにも急激なものに関しては、

受け手は無視したり、ツイッターであればブロックしたりもできるのに、

絵師が反応し続けたというのは、やはり何かあるんでしょうね。

 

想像するに、絵師もある程度の生きづらさを抱えた変人で、

同強度(~それ以上)の変人(=王子)に出会ったことが、

ある種の解放であったりした可能性はあるし、

もしかしたらまた別の沼に突き落とされるかのような体験であったかもしれない。

いずれにせよ、王子から受けたアプローチは、絵師が潜在的に必要としていた別のフェーズへの移行を促す体験なのではないかなと感じます。

 

ここまでで、ふたつめの仮説として、

要求に応じることが責任を生じさせ、情を深める

ということがいえるのではなかろうか。

そしてそこから、2人の時間が始まる。

 

強調したいのは、

責任があるから要求に応じるのではなくて、

要求に応じているうちに特別な関係性が結果として築かれる。

ということです。

この体感は友情に限らず、子育てだとかペットの飼育などでも実感できることかもしれない。

 

責任という観点からさらにいうと、

ひとたびヒツジをかきはじめた絵師は、

王子を満足させることに責任を感じていたようだし(だから描き直してまで依頼に応じようとした)、

王子は王子で、自分の満足するヒツジを描かせることに執着して、

出てきたヒツジに「あ、これでいいです」とも、途中で「あ、なんか違うみたいです。さよなら」とは言わなかった。

このことは、

王子側においてもなんらかの責任が発動していることの現われなのかもしれない。

描きなおさせるうちに期待と熱がこもることは容易に想像できる。

 

責任ふたたび

日本語の責任という言葉はとても重くて、

「できれば引き受けないほうが身軽に過ごせるもの」っていう雰囲気が漂いませんか。

 

でも、過剰に要求し、過剰に応じた結果生まれた友情の責任というのは、

逆に、思いのほか、甘美なものなのかもしれないです。

 

通常、友情の始まりにおいて、確かなものは何もない。

王子と絵師に見られるような過剰さがあろうがなかろうが、

どんな友情にも当初から確実さがあったわけではなく、

あったとしたって「きっといい友達になれるだろう。きっと」みたいなほのかな期待くらい。

そんなところから生まれているわけで。

 

でもそこに積み重ねられていく時間のなかでつむがれた愛着は確かなものとなり、

時間のなかで築かれた関係は、責任になる。

キツネが次のように語るように。

 

「あんたが、あんたのバラの花をとても大切に思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」

(『星の王子さま (岩波文庫)』p.128)

 

「めんどうみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。」

(『星の王子さま (岩波文庫)』p.128)

 

この、2人の間に流れた時間や、「相手に責任を感じる」という思いは、

相手が物理的に近いか遠いかには関係がないな、と思いましたね。

 

つまり、物理的距離のある仲良し(P遠S近)に対しても、

物理的に近い人と同じように時間をかけることができるし、

同じように責任を感じることができる。

(遠くにいる人に具体的にどんな責任の果たし方ができるか、というのはまた別の話だと思います。)

 

タイクツさんの話

メタな話をしますが、

私にとってタイクツさんも、P遠S近な一人です。

タイクツさんの物理的な居住地は、おそらくはそんなに遠い感じはしないんだけど、

一度もお会いしたことはないという点では、フィジカルに遠い。

だけど、こんなふうにやりとりをする関係ということで、

ソーシャルには非常に近くて、はてなの言葉で言えば”おとなりブロガー”なわけです。

 

抽象度の高いヘンな話をしてくれたり、させてくれたりするのは、

過剰さに対して過剰で返しあう、

これも王子と絵師のやりとりに類するものであるのかなと私は勝手に感じています。

 

タイクツさんのブログは以下のような記述で締められているのですが、私はとてもうれしかったですね。

忖度しない責任という言葉が。

 

今インターネット特有のつながりには、全く別の、新しい「責任がある」つながり方が普及してきているような気が私はしています。「星の王子さま」で説明されているような、それこそプリミティブな感情的つながりって普遍的なものなので、どんなに形ややり方を変えてでも人間はそれを求めていくものだと思うのです。

 

梅つまさんとの関係性にもまさにそれを感じます。これはすごくブログ交流特有のものです。いつもすごく刺激を受けて感想を書くのに、なぜかいつも全く別の話をしている感じになります。

互いに琴線に触れた部分で一方的に広がる別次元の自分ワールドを語り始めてしまって、でも結果的にどれも刺激的に響くから、内容が噛み合わないまま別方向に進展して行ってもお互いわかるし対話が成り立つような感じ。話を合わせるために思考の深化を捻じ曲げてまで忖度するような必然性を何も感じないのですよね。

 

そしてあえて忖度しない「責任」もあるような気がしている。

 

私は梅つまさんには共鳴とはまた違った形で、思考への興味の強さ、思考深度、実直さ、に共通性と信頼感を抱いています。だからこそこちらからも忖度なしで浮かんだ考えや思いつきをそのまま実直に提示したいと思ってますし、そういう一方的な「責任」感で繋がる信頼関係がブロガー交流というものにはあるのかもしれんなあと思いました。

「星の王子さま」がTwitterにいたらたぶんこんな感じ【漫画】 - ママゼロブログ

 

画力や文章力に見られるタイクツさんの表現力はすばらしいですが、

それは理解力が見事だから、ってことなんだろうと私は感じています。

物事をわかる力がすごい。

 

私に浮かんだ考えや思いつきを提示してもわかってもらえるだろう、

という直感が、私はタイクツさんには持っていて、

それは私にとって幸せなものです。

 

この直感と幸せさはスポーツ的な感じかと思います、

どんな自分の球も受け止めると信じられるキャッチャーがいるピッチャーはこんな気持ちかもしれないです。経験はありませんが。

 

そして、過剰にアプローチをする側の私は、

応じてくれた相手にすごく感謝をしています。

過剰さに過剰さで応じてくれたときの感謝は、恥ずかしい踊りに付き合ってくれた感謝に似てると思う(これも経験はないんだけど)。

しなくてもいいのに、あえて私に加わって、一緒に踊ってくれる人、

そういう友情を見せてくれた人へは、ありがたく慕わしいです。

 

そのほか

タイクツさんが王子と絵師の友情をツイッターという場にあえて移動させて、

見せてくれたからこそ見えてくることはもっとあります。

 

ツイッターというのは第3者(複数でありうる)が目撃しうる場所ですが、

2者間の密室的な友情関係とどう違うんでしょうね。。

 

たとえば絵師が描いたヒツジの箱の絵は2156も「いいね」を獲得しています。

856のリツイート、リプライも16件。これはいったいどういう意味だろう。

どういう内容のコメントを得たんだろうか。

賞賛?批判?

 

ツイッターだから、やりとりには第3者も介入しうるわけで、

たとえば第3者が

「あの、FF外から済みませんが、この絵師さんは飛行機を描くの専門ですよ。ヒツジはちょっと迷惑なんじゃないですか」

みたいなリプライで間に入り、

絵師がそこに「そうなんです。そういうわけなんで。ちょっと困ってます」

と続けたりしたら、この展開にはならなかっただろうと思われます。

 

そうすると、第3者を介すると友情の発生は失速というか、未然で終わる可能性が多少高いのかしら。

というか、3人で同時に仲良くなるとかもありうるのか?

高校のクラスとか、大学のゼミとかで「3人で仲がいい」とかの経験がある人はいそうではあるが、ほんとそう?均等?裏でなんかやりとりしてない?あとから「ひとりとは連絡取らなくなっちゃった」とかない?

 

このあたりは今後考えるかどうかわからないけど、未決の課題にしておきます。

2者間の友情の舞台には、間に誰もいない分、思い込みで突き抜けていけるすがすがしさがあるといえそうだけど、

3人以上で構築する関係性はどうなんでしょう?

メリットデメリット。この辺も気になる。

 

つま子

以上です!終わります!楽しかった!

 

今日もいい一日になりますように!

 

*:..。o○ 応援クリック、ありがとうございます ○o。..:*

 にほんブログ

村 ライフスタイルブログ シンプルライフへ  にほんブ

ログ村 ライフスタイルブログへ

プライバシーポリシー

© 梅つま子