おはようございます。
梅つま子です。
2016年1月23日にこのブログ「明日も暮らす。」をつづり始めました。
8年目に突入しました。
以前から読んでくださっている方、最近読み始めてくださった方、
たまたまこのページにたどり着いてくださった方、
ありがとうございます。感謝です。
今年は年明けから大変な災害のニュースが飛び込み、
日常がどんなに奪われやすいものかを感じながらの年明けでした。
書くことができる幸せをこんなに感じることもありませんでした。
去年の私は、こんなことを書いていました。
書くことは、日々の小さな傷つきと小さな幸せを寄り合わせてくれる作業だからです。
毎日の中に、小さな苦しみと小さな幸せがある。
うんうん、そうよね。わかる。
(自分だもんね、書いたの)
どうしてブログを書いているのか、という問いを、
この時期には自分に向けます。
その問いを考えるのにぴったりの本を先日読みました。
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この本には、何かを学んだときそれを浮き上がらせるのは、
「差分」を考えるとよい、という考え方が出てきます。
ここでいう差分というのは、
何かを始めた後の自分ー何かを始める前の自分=そのことを通して得た学び
で、ブログについていえば、
ブログを2016年に書き始めて、今も書いている2024年の私は、
ブログを書くまえの2016年時点の自分とはとても違うと思います。
(この期間の変化はすさまじくて、その筆頭として息子が生まれているし、違いは他のことによってもたらされていますが。)
一言でいうと、書くことがシステム化されて日常の中に位置づいた、ということです。
上記の、一年前のブログにも書いているけれど、
私にとって書くことは、生きる作業のなかでどうせ発生する作業です。
豆腐を作るときにおからができるみたいに。
ということで、
いずれにせよ発生する作業を、
私にとって負担の少ない形で最大化できているなと思います。
私が発する情報を提供する場として、そして私が情報の取得する場として、
ブログは私の大切な場です。
そして、
書くことが好きということが、書くことを通して強化され続けているのを感じます。
好きだから書くし、書くからもっと書くことが好きになります。
この一ヶ月ほど、毎日書くということを続けてみているのですが、
これはやはり気持ちがいいですね。
尾篭な話で恐縮ですが、考える、書くというのは、自動洗浄ではないお手洗いのようであります。
流す、という動作を加えないと勝手には流れないのでありますし、
前のものがキレイに流れた状態でないと、
次のものを産出する気持ちになりにくいではありませんか(すみません)。
何を書こうかなあ、と思うことはないわけではないのですが、
私にとって、書くこととは、流すために流すことなんですから、
思いつかないようなら、
15分前にしてたこと、15分後にする予定のことを書けばいいのかな、と思います。
それくらい軽い気持ちでいたいなと思っています。
あとこの1年で得た気持ちとして。
私にとって出産したことはとても大きなことだったんですけど、
あまり「2児の母」というアイデンティティは私の中核にはないな、この頃とみに、はっきりしてきてます。
子どもへの愛はそのままに。
むしろそう気づいてからというもの、
わが子たちのかわいさ、すごさに気づくことが多いです。
母親としてじゃなくて、人として見たときに、
がんばってるな、よくできるな、すごい根性だなあ、こういうところ私にはないな…とかが気づきやすくなったように思うのですね。
逆説的ではありますが、
母親とか妻という役割と呼応するものじゃないものに光を当てたり、探索したりしたときに、
そういった役割をラクにしたり深めたりすることができるのかもしれないと、思っています。
「誰に向かって書いているのか」、というのも、「なぜ書くのか」に並ぶ問いです。
2019年に書いているとおり、
このブログは「スライム一匹倒した報告」ですので、
私の倒したスライムに関心を持ってくださっている方がいればいいなと祈っています。
そういうどうでもいい系のことを面白がってくださる方は大体友達です…!
どうでもいい一匹、ちっぽけな経験値が、
やがて大きな改善、ラスボスを倒すレベルアップにつながることを感じていただけたらと思っています。
子どもを産み育てるいうことがどれだけ大変かを、
私は産んだ直後よりも今ひしひしと感じておりまして、
何か愚痴を言おうものなら、
「じゃあ何で産んだの?」と言われるから口をつぐむしかない、
と思っている人たちには、心からのシンパシーがあります。
あなたが幸せであってほしい、元気であってほしい。
自分が主体的に行ってきた選択肢の先でつまづくなんてことがありえると思っていなかったかつての私が、
それらをわかるようになってきた日々の記録を、
私はこれからもつづっていくでしょう。
人が思うような幸せさがなくても、
誰かが同じことを体験したら身がちぎれてしまいそうなことを経験しているなかでも、
それでも楽しく暮らしていけるんだと、幸せだと言えるんだと、
信じたい人の一人です。
明日も暮らしましょう。
今日もいい一日になりますように!